『親鸞伝絵』
弁円済度の段  報徳寺婦人部第2回例会 平成25年7月12日

 法然聖人(ほうねんしようにん)のもとで専修念仏(せんじゆねんぶつ)の研鑽(けんちん)を積んでおられた親鸞聖人は、朝廷から念仏停止を言い渡されて、承元(じようげん)元年(一二〇七)二月、越後国(新潟県)に流罪となりました。そして建暦元年(一二一一)に流罪が赦免(しやめん)されると、しばらく越後に留まられていましたが、その後関東に赴かれました
 聖人は、関東にはおよそ二〇年間おられましたが、おもに常陸国(ひたちのくに)(茨城県)を中心に、中でも稲田(いなだ)に草庵(そうあん)を営み、伝道をされていました。親鸞聖人の説く専修念仏(せんじゆねんぶつ)の教えは、関東各地に広まっていきました。
 親鸞聖人が関東におられた時の様子について、本願寺第三代覚如上人は、『親鸞伝絵』のなかで、「稲田(いなだ)興法」と「弁円済度(べんねんさいど)」の二つの出来事を収録しています。
 このうちの「弁円済度(べんねんさいど)」は、親鸞聖人が広められた専修念仏(せんじゆねんぶつ)に対して、快く思わない山伏(修験者)の弁円についての逸話です。稲田(いなだ)の草庵に近い筑波山地は、当時修験道の修行が盛んなところでした。
 山伏(やまぶし)の弁円(べんねん)は、聖人がいつも行き来する板敷山(いたじきやま)の山中で、聖人に危害を加えようと待ち伏せすることにしました。ところが、いつもは通りかかるはずの親鸞聖人は、何度待ち伏せしても現れなかったのでした。

 そこで、しびれをきらした弁円(べんねん)は、聖人の草庵(そうあん)に乗り込んでいくことにしました。
 弓矢を手にして草庵(そうあん)に乗り込んできた山伏の弁円(べんねん)に対して、親鸞聖人は「左右なく出であひたまひけり」(一〇五五頁)と、何のためらいもなく、わざわざ訪れてきた客人として出迎えられたのでした。
 このような広い心の親鸞聖人に接した弁円(べんねん)は、危害を加えようとした気持が直ぐさま消えてしまい、それからしばらくして、今まで心に抱いていた思いを聖人に打ち明けたところ、聖人は驚く様子もなかったということです。
 そこで弁円(べんねん)は、持っていた弓矢を折り、刀や杖を捨て、山伏(やまぶし)特有の額に付ける頭巾(ときん)を取り、柿渋染めの山伏の着衣を脱ぎ、専修念仏(せんじゆねんぶつ)に帰依して、聖人から明法房(みようほうぼう)の名を頂いたのです。  この時の様子について、『親鸞伝絵(しんらんでんね)』には、板敷山(いたじきやま)の山中で弓矢を手にした山伏弁円(べんねん)か鎧(よろい)をまとって槍(やり)を片手にした従者とともに待ち伏せする場面と、その後には、弁円(べんねん)か親鸞聖人の草庵(そうあん)を訪れる場面が描かれています。聖人の草庵(そうあん)では、二つの異なった場面が、同じ一つの画面のなかに時間経過を追いながら描かれており、訪れてきた弁円(べんねん)を門のところまで迎え出られる親鸞聖人と、草庵(そうあん)の縁側辺りで弁円(べんねん)と対面する聖人が描かれています。

 貼付している「高田本(たかだぼん)」(専修寺蔵(せんじゆじぞう))では、絵の部分に「聖人ためらふところなくいてあひたまふけしき」という註記がなされている親鸞聖人も、黄色の着衣とされています。 ここに描かれた聖人は、突然の来訪者に対して直ぐさま門のとろまで迎え出た様子を、普段着の姿によって表現しているといえます。また、この「高田本(たかだぼん)」で、弁円(べんねん)を迎えに出た聖人が手にしている杖をじっくり見ると、杖の先と途中が二つに分れていることがわかります。二つに分れた形の杖は「杖柚杖(またぶりづえ)」と呼ばれるものです。途中が分かれた形の杖は、「安城御影」(本願寺蔵)に描かれた親鸞聖人の前に横たえられた杖と共通する特徴になっていことがわかります。

 そして、草庵(そうあん)のなかで、弁円(べんねん)の話を聞き、専修念仏(せんじゆねんぶつ)の教えの真髄を語るに際しては、念仏者として正式の墨衣墨袈裟(すみえすみげさ)の姿の聖人として描かれているととがわかります。