『親鸞伝絵』
信行両座の段(上巻第六段)       報徳寺婦人部第3回例会 平成25年2月8日

「信行両座(しんぎようりようざ)」と「信心諍論(しんじんじようろん)」についての年代は定かではありませんが、覚如(かくによ)上人は『御伝鈔(ごでんしよう)』では、「選択付属(せんじやくふぞく)」の後にあげています。そうすると、「信行両座(しんぎようりようざ)」と「信心諍論(しんじんじようろん)」は、元久二年八月から承元元年一月までのこととなります。 
 このなかにある「信行両座(しんぎようりようざ)」とは、阿弥陀仏の本願を信じる一念に浄土往生が決定するのか(信不退)、あるいは念仏をはげみその功徳によって浄土往生が決定するのか(行不退)、どちらの立場が聖人の教えに適っているのか、二つの座を設けて、法然聖人の門下の信をたしかめたものです。
 「信行両座(しんぎようりようざ)」について、本願寺所蔵の『親鸞伝絵(しんらんでんね)』「琳阿本(りんあぼん)」では、吉水(よしみず)の草庵の一室で、法然聖人が奥の畳に一人で座り、その左手の「信の座」に並んで座る三人が、奥から聖覚法印(せいかくほういん)・信空上人(しんくうしようにん)・法蓮(ほうれん)・親鸞聖人です。
 そして、その反対側の「行の座」には多くの門弟の居並ぶ様子が描かれ、法然聖人の正面には、遅れて駆けつけた熊谷直実(くまがいなおざね)と法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)が右手で頭を掻く素振りを見せながら、親鸞聖人に向かって話しかけています。 ここ描かれている親鸞聖人は、前に文箱(ふばこ)を置さ、紙と筆を持って筆記しているのがわかります。 法然聖人をはじめその門弟は全て,国家から離れてお念仏の教えに身をおく僧として、墨衣墨袈裟(すみえすみげさ)の姿とされています。そのなかで聖覚法印(せいかくほういん)だけは、墨衣墨袈裟(すみえすみげさ)ながらも、天台宗の僧侶であるため、後頭部の襟が三角に尖る僧綱襟(そうごうえり)の衣として描かれています。
 親鸞聖人をさらに注視してみると、背筋を伸ばして座り、眉尻が上がった厳しい表情に感じられます。この姿からは、三十四歳前後という壮年期に達し、法然聖人のも専修(せんじゆ)念仏の研鑽(けんさん)に励む聖人の気概さえ感じられます。ただ、まだ年齢的にも若いせいか、聖人のトレードマークともいえる襟巻(えりま)きの帽子(もうす)は首に巻かれていません。なお、親鸞聖人の眉尻が上がった表情は、晩年の聖人を描いた「鏡御影(かがみのごえい)」(本願寺蔵)でも見ることができます゜
 




「琳阿本(りんあぼん)」と「高田本(専修(せんじゆ)寺蔵)には、親鸞聖人の向かい側「行の座」から縁側にかけて、雑然と座る門弟たちが描かれています。その表情はどこかよそよそしく感じられ、まさに『御伝鈔(ごでんしよう)』に「三百余人の門侶(もんりよう)みなその意(こころ)を得ざる気あり」(一〇四九頁)とあるように、ほとんどの門弟が信行両座(しんぎようりようざ)が設けられた意図をよく理解していないという様子が読み取れます。 この二本に対して、覚如上人が晩年に製作された「康永本(こうえいぼん)」(真宗大谷派蔵)では、この場面の「行の座」の門弟たちは整然と座っており、「琳阿本(りんあぼん)」製作から四十八年経過するなかで、形式化が進んでいることが感じられます。なお「康永本(こうえいぼん)」では、信の座と行の座に分れて座る場面の前に、親鸞聖人(しんらんしようにん)が法然聖人(ほうねんしようにん)に門弟たちの心の内を確かめる信行両座(しんぎようりようざ)を設けることを相談している場面が付け加えられています。
 このように、法然聖人のもとでの親鸞聖人は、真摯で真っ直ぐにお念仏に向かわれていたことが『親鸞伝絵(しんらんでんね)』「信行両座(しんぎようりようざ)」の段から読み取ることができるのです。





                                                   資料 ~『伝絵』に描かれた親鸞聖人~より   ホーム