『親鸞伝絵』 「吉水入室」の段 
報徳寺婦人部第2回例会 10月12(金)午後1:30から

                                          参考資料  『親鸞伝絵』 ~『伝絵』に描かれた親鸞聖人~より
 親鸞聖人(しんらんしようにん)ご自身の著書(ちよしよ)である『教行(きようぎよう)信(しん)証(しよう)』の「後序」には、「建仁(けんにん)辛酉(かのとのとり)暦」に「雑(ぞう)行(ぎよう)を棄てて本願(ほんがん)に帰す」と記されています。ここに出る「建仁(けんにん)辛酉(かのとのとり)」の年とは、建仁(けんにん)元年(一二〇一)のことで、聖人はこの年に比叡山を下りて、法然聖人のもとに行かれました。
 聖人の妻である恵信(えしん)尼(に)さまの消息(しようそく)には、この時のことについて、「山を出でて、六角堂(ろつかくどう)に百日籠(こも)もらせたまひて、後世(ごせ)のこといのりまうさせたまひける」とあり、聖人は比叡山を直ちに六角堂(ろつかくどう)に籠(こ)もられた後、法然(ほうねん)聖人のもとに行かれたという記述になってます。
 しかし、覚如上人が制定した『親鸞伝(でん)絵(ね)(御伝鈔(ごでんしよう))』では第二段を「吉水入室」、第三段を「六角夢想(むそう)」としており、法然聖人のもとへ入門された後に、六角堂(ろつかくどう)に参籠(さんろう)されたとなっており、順番が違います。ただ、いずれにしても比叡山を下りた法然聖人のもとに行き、「専修(せんじゆ)念仏(ねんぶつ)」に帰したということになります。
 『親鸞聖人伝絵』の第二段には、「建仁(けんにん)第一の暦春のころ、聖人二十九歳隠遁(いんとん)のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅坊(ぜんぼう)にたづねまゐりたまひき」として、比叡山を下りた親鸞聖人が、東山吉水におられた法然聖人のもとをたずねる様子が描かれています。
 そこには、輿(こし)に乗って吉水の庵室を訪ねられた親鸞聖人が、数人の従者(じゆうしや)を連れて吉水の門を入った様子と、庵室の中で法然聖人と対面している姿の二つの異なった場面が、同じ画面のなかに時間経過を追いながら描かれています。



先学によって指摘されているように、覚如上人が二十六歳の永仁(えいにん)三年(一二九五)の奥書をもつ、『親鸞伝(でん)絵(ね)』「琳阿本(りんあぼん)」(本願寺蔵)と「高田本(たかだぼん)」(専修寺蔵)では、親鸞聖人が訪ねられた吉水の庵室は、板葺き(いたぶき)の屋根に重しの自然木が乗せられた、狭く質素(しつそ)なものですが、晩年の康永(こうえい)二年(一二四三)に制定された「康永(こうえい)本」(真宗大谷派蔵)では、広く立派な庵室になっています。
法然聖人の庵室を訪ねる親鸞聖人の右手に「聖人聖道(しようにんしようどう)の行粧(じようしよう)にて参らせるゝところ也」と注記されています。つまり親鸞聖人は比叡山で修業されている装いそのままの姿で法然聖人の元に訪ねているというのです。
さらに親鸞聖人の衣を詳細に見てみると、襟の後ろのところが三角形に立っていることがわかります。これは「僧(そう)網(ごう)襟(えり)」と呼ばれる形式のものです。
 僧網とは、古代において、国家から任命された、全国の僧侶(そうりよ)を統制する役職をもつ僧侶のことです。
 覚如上人が『親鸞伝(でん)絵(ね)』を制作するにあたって、僧網がつける僧網襟の装束(しようぞく)で親鸞聖人を描くようにされたことは、比叡山にいた聖人も、国家のために修行をする管僧としての僧網の規定のなかにいたことをあらわされたのでしょう。
 内部の様子を比べてみると、「琳阿本(りんあぼん)」と「高田本」では親鸞聖人と法然聖人が正面で対座しているのに対して、「康永(こうえい)本」では法然聖人が上座に位置していることがわかります。これらのことから、時代が過ぎると法然聖人の偉大さが強調されるようになったようです。
 この時の法然聖人墨衣墨袈裟(げさ)の姿で描かれています。これは国家のための僧ではなく、民衆のなかにおいて、あらゆるものを平等に救う阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願の教えを伝える僧として描かれていることを意味しているのでしょう。
 『親鸞伝(でん)絵(ね)』において、吉水の法然聖人のもとに入室し、専修念仏の教えに帰依(きえ)された後の親鸞聖人は、墨衣墨袈裟(げさ)の姿で描かれています。吉水入室後で親鸞聖人の姿が、色衣から墨衣墨袈裟(げさ)に変わるのは、まさに「雑(ぞう)行(ぎよう)を棄てて本願(ほんがん)に帰」されたことを表したものといえます。吉水入室前後で親鸞聖人の根本的な立場の違いを読み取ることができます。

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