親鸞聖人と七高僧の教え(曇鸞大師の教え)

 親鸞聖人の教えは、七高僧の中でも特に曇鸞大師と善導大師の二人の教えが根幹になっていると言われています。
▼大師の生いたち
 大師は北魏孝武帝(ほくぎこうぶんてい)の承明元年(四七六)、北中国山西省五台山に近い雁門に生まれたと言われています。
近くには万里の長城も見られる山々に囲まれた地域です。 大師は十五歳までに五台山で出家され、
龍樹菩薩や龍樹の弟子提婆菩薩の研究するグループの学僧になられました。
その仕事の途中で大師は病気になられたのです。何とかこれを完成したいと大師は長生きを願われたのでしょう。

▼大師の回心
 

都の落陽でインドからやってきた有名な訳経三蔵、菩提流支(ぼだいるし)に逢いました。
そこで大師は、
 「仏法の中に、長生不死の法で、中国の仙経に勝ものがありますか」
 と尋ねられました。 
 「中国のどこに長生の法があるのだろうか。たとえば長命を得ても、
終わりにはまた迷いの世界を輪廻するだけではないか」
と言って、浄土教の書物を授け、
 「これによって修行すれば、生死を解脱することが出来るだろう」
 と教えられたと言うことです。


 浄土教に帰せられた後の大師は、并州(へいしゅう)の大巌寺(だいがんじ)、
汾州石壁(ふんしゅうせきへい)の玄中寺などに移り住まれ、さらに平遥山寺(へいようさんじ)に移られて、
東魏の興和四年(五四二)六七歳で往生されたとも伝えられています。


 石壁の玄中寺は曇鸞大師の往生の後、念仏に帰された道綽禅師もここに住まわれ、
また善導大師もこの寺で道綽禅師から念仏の教えを受けられたと言われています。


▼大師の教化
 大師の臨終時に、近隣の村々から駆けつけた在家信者や、
寺内の弟子達三百余人の称える念仏の声の中で、しずかに往生されたと記されています。


▼大師の著述

 
 曇鸞大師の著書には、次の三部が伝えられています。
 『往生論註』二巻
 『讃阿弥陀仏偈』一巻
 『略論安楽浄土義』一巻


 曇鸞大師の著述を代表するものは、『往生論註』(『浄土論註』『論註』とも言う)です。
それは天親菩薩の『浄土論』を注釈するという形をとりながら、種々の角度から曇鸞大師の深い思索と、
浄土教義が広く述べられているのです。


▽『往生論註』の要点は


 ①本願他力の回向によって、②五逆十悪の凡夫が、③広大無碍の一心をいただき、涅槃の悟りに到ることを説かれたものです。
▼『論註』は他力の教え
 浄土真宗の教えの特色をもっとも端的に示す言葉に他力回向という語があります。
この他力回向という語は『往生論註』から導き出された言葉です。


 『論註』の冒頭では、龍樹菩薩の難易二道判を示し、
 仏道を次の二つに分け、
難行道→自力の教え
易行道→他力の教え


【難行道】…自力すなわち人間の力のみによって向かう教えであって、
       他力すなわち仏の力によることがないから難行となる。


【易行道】…他力すなわち仏力によって悟りに向かう教えであるから易行である。
『論註』→易行道、他力の教えであることを明らかにされます。


▼『論註』の他力


 衆生が五念門の行を修してすみやかに仏果を得ることが出来るのであるが、その理由を示して、
  しかるにまことに其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす衆生が速やかに仏果を得るのは、
阿弥陀仏を増上縁とするのだと言うのです。


【増上縁】…きわめて強い超人的な力のことであると言われています。
       阿弥陀仏の超人的な強い力によるから、速やかに仏果を得ることが出来るのだというのです。 
「第十八願」…衆生が速やかに往生ができる。
「第十一願」…正定聚に住して速やかに仏果を得ることができる。
「第二十二願」…浄土往生の後に、速やかに娑婆世界に還ってきて、衆生済度できる。


 親鸞聖人が「他力といふは如来の本願力なり」と示されるのも、この曇鸞大師の教えに基づいているのです。


▼『論註』の回向


 浄土真宗では他力回向と言いますが、回向とは元来、振り向けるという意味の言葉です。
▽回向に往相回向と還相回向とがある。
【往相回向】…自己の修めた功徳を一切衆生に施して、共に浄土に往生しようとする活動である。 
【還相回向】…浄土に往生し終わった後、再び迷いの世界に還ってきて、
        自らの功徳を衆生に回施して済度する活動だと説かれています。



▼『論註』の回向の真意


 如来の本願力によるということを基に、『論註』の往相と還相の二回向を考えると、
往相も還相も共に如来の本願力によって如来の功徳を衆生に回向される、如来回向であると考えざるを得ません。
 親鸞聖人は、他力すなわち本願力とは、
具体的には往相回向、還相回向としてはたらくものであることを明らかにされたのです。


▼親鸞聖人の自力と他力


【自力】…体力、知力、意志力をたよりとして努力し、善行を積んで救われることです。 
【他力】…自力の限界を超えたところに開かれた世界です。


      ただわが身をも心をも、はなちわすれて仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、
      これにしたがひもゆくとき、ちからをもいれず、心をもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。
                                              道元禅師「正法眼蔵」


 仏のかたよりおこなわれて、仏力によって、身も心もはなち忘れて、自力を捨てて、仏となるとあります。
禅の究極もまた他力であるということです。


▼救いの対象

 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の易行道は、在家信者のための仏道を説いたものであるということです。
▽曇鸞大師は、
 易行道→信仏の因縁により、仏願力に乗じて善人も悪人も共にさとりに至る道であると見られました。
▽『大経』には、阿弥陀如来は十方のあらゆる衆生を浄土に往生させると誓われています。 
▽龍樹菩薩も天親菩薩も、浄土に往生できるのはどのような人々であるのか論じられませんでした。
☆曇鸞大師が初めて、弥陀の本願の対象は一切衆生、とりわけ十悪・五逆 ・謗法の者であることを明らかにされたのです。


▼極悪人も救いの対象


『大経』には、 
  あらゆる衆生が、阿弥陀如来の名号を聞信して、
  浄土に生まれたいと願えば、往生を得ることができる。
  ただ五逆と誹謗正法とを除く
とあります。


『観経』では、九品の往生が説かれ、
  下下品の往生とは、五逆・十悪を作った愚人が、
  臨終の時に、善知識に教えられて、十念、
  南無無量寿仏と称えると、仏のみ名を称えたことによって、
  命終の後に極楽世界に往生することができる
とあります。『大経』では五逆と誹謗正法のものは往生できないとあり、
『観経』では五逆・十悪の者も往生を遂げるとあります。
▽この矛盾をどう考えたら、経の真意を得ることになるのか問題になります。


 曇鸞大師は、五逆・十悪の重罪を犯した人も
 「ただ正法を誹謗せざれば、仏を信ずる因縁をもってみな往生を得」
 とされ我々の往生は罪の軽重が問題でなく
 「仏を信ずる」
 か否かによって決まるのだ。それで『観経』では下下品の人も往生が出来ると説かれたのだというのです。


『大経』に、
 「五逆と誹謗正法とを除く」
 とあるのは、五逆の上にさらに正法を誹謗している者は往生できないという意味であり、
五逆の人は、「仏を信ずる」ことで往生できるのだけれども、今現に正法を誹謗している人、
念仏を謗る人は往生を願う道理がない。往生を願うはずがないから、誹謗の人は往生できない。
すなわち弥陀の救いから排除されると『大経』では説かれたのだと大師は考えられました。


 しかし大師が誹謗の者は往生できないといわれる意味は、現在、正法を誹謗している人のことであって、
これらの人も、誹謗の心を翻し弥陀の名号を聞信すれば往生できるのだと考えられました。
▼極悪人の救われる理由
 曇鸞大師はさらに『観経』に下下品の十悪・五逆の衆生も臨終に
十念念仏して極楽世界に往生することかできるとあることを取り上げ、極悪の凡夫も往生を得るとされました。
 この迷いの闇がたとえ千年続いていたとしても、一度光がさしこみ始めれば、一瞬にして闇も消えて明るくなります。
五逆・十悪の罪を犯した 時の心は、迷いの闇の心だったのです。
しかし、一旦、信心を得て如来の光明が心の中にさし込み、如来の智慧を心の支えとし始めた時、
迷いの闇は晴れ、光明の浄土に往生を得るのだと考えられたことと思います。


 中国仏教界では大きな議論になりなした。けれども大師の教えは容易に理解されませんでした。
ただ道綽禅師・善導大師だけは、大師の教えを受け伝えてくださったのです。


▼親鸞聖人の信心往生


 親鸞聖人は、信心が往生の因であり、信心をいただいたら往生を得させていただくのだと考えられました。
 命終の時に特別な心で死に臨まなければならないことはありません。
お迎えを頼りにする必要もありません。ただ如来のはからいにうちまかせて往生を遂げるということが聖人の教えです。


▼往生の因について


曇鸞大師は、浄土往生の因をどのように説かれたのでしょうか。 
   かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の
   無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
   しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて
   所願を満てざるものあり

名号には、衆生の疑いの心を破り、迷いの世界から救って、
浄土のさとりを得させるはたらきがそなわっている。
しかし、念仏申し、阿弥陀如来やお浄土を思っているけれども、一向に救われているとも思えず、
浄土のさとりを得られるとも思えない者がある。


▽それはどうしてだろうかと問い、それに答える形で往生の因を示されます。
①「阿弥陀如来がどんな如来であるかを知らずに念仏しているから救われた思いがないのだ」
②「衆生の誤った心で、誤った信心で念仏しているから救われた思いがしないのだ」


▼阿弥陀如来はどんな仏か


 私たちは、阿弥陀如来を信じるのですから、阿弥陀如来とはどんなお方であるかよく知らねばなりません。
そのことを知らずにいくらお念仏してもそれでは救われないだろうと曇鸞大師はいわれるのです。
 阿弥陀如来は実相身(じっそうしん)の仏であり、
また為物身(いもつしん)の仏であるというこの二つを知らないから念仏していても救われていると思えないのだといわれるのです。


【実相身】…さとりの智慧を身につけておられる仏。
【為物身】…衆生を救う慈悲を身につけておられる仏。


 阿弥陀如来はこの私を救うことができなければ、仏にならないという願いに報いてさとられた仏です。
その私をお救いくださる阿弥陀如来が、私の念仏となってはたらいていてくださっているのです。
私についていてくださっていると信じ知って念仏する。それが真実の念仏であると大師は説かれるのです。


▼真実の信心とは


 私たちは、阿弥陀如来をどう信ずるか、その信じぶりを考えねばなりません。
誤った心で念仏しても、救われていると感じることはできません。
 誤った信心は三不信と言われ、
  「信心淳からず」「信心一ならず」「信心相続せず」の三つです。


【信心淳(あつ)からず】…「一つには信心淳からず、存ずるがごとく亡(もう)ずるがごときゆゑなり」とあります。
              淳とは厚く深いことです。今は「淳からず」ですから浅薄な心です。


【信心一ならず】…「二つには信心一ならず、決定なきがゆゑなり」とあります。
          疑いの心があって、私をお助けくださる仏は弥陀一仏であると、
          弥陀一仏にまかせきることのできない心です。それは弥陀一仏と決定しかねている心です。


【信心相続せず】…真実の信心は生涯ずっと続くものですが、この心は続くことがなく
           「余念間(よねんへだ)つる」とあります。それは弥陀以外の仏、菩薩、神、などを念ずる思いが、
           間にまじることです。それで弥陀一仏を信ずる心が続かないのです。


 三不信と相違するのが真実の信心です。淳心・一心・相続心といい、三信とも言います。
深く弥陀一仏におまかせする心が続くすがたです。真実信心をもって念仏するものは、
救われた思いで生き、またさとりに至ることができるのだと大師は言われるのです。


 真実信心を三信といいますが、決して三つの信心ということではありません。
一つの信心を三つの側面で表現したものです。この信心があってこそ、
念仏による救いがあるのだと大師は示されるのです。


                                                  黒田覚忍先生

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