親鸞聖人と七高僧の教え(道綽禅師の教え)
▼道綽禅師の誕生とその時代
道綽禅師は北斉(ほくせい)の河清元年(五六二)の誕生です。
それは曇鸞大師(四七六ー五四二)が往生されてより二十年後のことです。
禅師の生きられた時代は、わが国の聖徳太子(五七四ー六二二)とほぼ同時代に相当します。
〔誕生の地〕→かつて曇鸞大師が活躍された山西省併州分水(へいしゅうぶんすい)であったとも、
併州晋陽(しんよう)(太原(たいげん)の古名)であったとも伝えられています。
▽禅師の生まれたころの北斉では、イナゴの大群による蝗害(こうがい)、
あるいは旱魃や水害による飢饉(ききん)が度々おこりました。
そんな中で禅師は十四歳で出家されたのです。しかし北中国全体を占領した北斉の武帝は、
その支配地全体に苛烈(かれつ)な廃仏(はいぶつ)を断行、
すべての僧侶を還俗(げんぞく)させ、仏像は鋳つぶし、 経典は焼き捨て、
寺院は貴族の邸宅に供したといいます。
▽このようなはげしい廃仏の嵐も長く続きませんでした。武帝が北斉を滅ぼした翌年、
この世を去ったのです。その後、随の武帝(ぶんてい)(楊堅(ようけん))が
即位するや直ちに仏教再興許可を出しました。
▼禅師の求道
随の武帝が仏教を再興するや、禅師は出家として再出発をすることとなりました。
伝記によると禅師は亡くなった師匠の教えに従って『涅槃経』を広く伝えることに努められました。
『涅槃経』は、禅師の生まれる百五十年前に中国に伝えられて以来、
重要な経典の一つとして中国全域で研究され 続けてきた経典です。
ところが『涅槃経』の研究・講説に満たされないものを感じていた道綽禅師は、
どれほどひたむきな修行に励んでも、煩悩を断ずることの出来ない自分のすがたでした。
▼浄土教への帰入
慧贊禅師(えさんぜんし)の滅後二年間、道綽禅師はやがて
曇鸞大師ゆかりの石壁(せきへい)の玄中寺(げんちゅうじ)に詣でられました。
そこで曇鸞大師の碑を見て深く感動し、浄土の教えに帰入されたといいます。
▽これより禅師は念仏行者として、八十四歳の入滅まで、
自行化他につとめられたのです。『観経』を講ずること二百編、
称名念仏すること日ごとに七万遍、山西省晋陽、太原、文水三県の道俗を教化し、
七歳以上のものにみな弥陀を称せしめたということです。
▽著書に『安楽集』二巻があります。
『安楽集』について
『安楽集』かつては問題の書とされました。
道綽禅師の生きられた時代が中国の南北朝時代から随・唐時代にかけて、
社会史の上でも仏教史の上でも転換期に当たり、
各宗派が成立する過渡期であったことに由来すると考えられます。
この書は曇鸞大師の『大経』中心の教えから、
善導大師の『観経』中心の教えに橋渡しをする役割をはたしています。
『安楽集』は十二大門(十二章)より成り、その主要部分は第一大門、
第二大門、第三大門で、そこに「約時彼機(やくじひき)」すなわち時代と
人間の資質の面から念仏を勧めることや、「聖浄二門判」などが示されています。
▼道綽禅師と末法思想
道綽禅師の教えを述べるにあたって、仏教の三時思想を見ておかねばなりません。
【正法の時代】…釈尊の教えが正しく実践され、さとりも得られる時代です。
【像法の時代】…釈尊が入滅されて時代を経るに従い、その影響力が次第に弱まってゆき、
宗教的生命力が弱まり形式化し、教えも修行する人もあるがさとりを得ることが難しい時代です。
【末法の時代】…教えのみはあるが、これを修行する人も、それによってさとりを得る人もなくなった時代です。
正法の時代は五百年
像法の時代は一千年
末法に時代は一万年
禅師はこの時代を末法の時代であると深く感じられました。
このような時代に真の仏道はどうあるべきか、禅師は真剣に求められました。
▼聖浄二門判
従来の仏教に行き詰まりを感じていたのは道綽禅師だけではありませんでした。
このような歴史的背景の中で道綽禅師は、約時彼機に基づく聖浄二門の判釈をされました。
「約時彼機(やくじひき)」…時代と人間の機根(資質・能力)との相応を考えること。
「聖浄二門の判釈(はんじゃく)」…仏教全体を浄土門と聖道門との二つに判別する考え方です。
【浄土門】…阿弥陀仏の願力によって浄土に往生し、阿弥陀仏の浄土でさとりを得る教えです。
【聖道門】…阿弥陀仏以外の大乗・小乗のすべての仏教をさします。この教えに共通していることは、
この迷いの世界で努力精進し迷いの世界の中でさとりを得ようとする教えです。
道綽禅師は仏教全体を聖道門と浄土門との二つに判別された上で、
聖道門によらず浄土門によるべきであると浄土門への帰依を勧められました。
禅師は二つの理由から
①大聖釈尊が亡くなられてから遙か遠く時代を隔て、すでに末法の時代に入ってしまった。
正法の時代や像法の時代なら、さとりを得る可能性もあるかもしれないが、
末法の世となっては聖道門によってさとりを得る可能性はないということです。
②聖道門の教理は、奥深く、これを理解する私たちの能力が甚だ微弱である、
とても聖道門は能力のない私たちには相応できない教えだということです。
このように聖道門は末法という時代から考えても、人間の能力(機根) から考えても、
時・機不相応の教えであることを論証されました。
わが末法の時のうちに、憶々の衆生、
行をおこし道を修すれども、いまだ一人として
得るものあらず。
「大集月蔵経(だいじゅうがつぞうきょう)」
黒田覚忍先生