源信和尚の生涯
 源信和尚は天慶五年(942)大和国(奈良県)葛城下郡当麻郷に誕生されました。
 幼少のころから信心深い母君に伴われて、姉妹と共に当麻寺に参詣されたことでしょう。当麻寺はすでに当麻曼荼羅で知られていました。それは善導大師の『観経疏』の内容を絵画したものだということです。一返が一丈三尺、約4メートルにもおよぶほど正方形の掛け軸で、その前に立つ者に強い印象を与えずにはおきません。ときには絵解きをしてもらったこともあったかもしれません。それらは後に和尚が浄土信仰を持たれる素地を作ったことでしょう。
 和尚は良源の指導のもとで、学問と修業にいそしまれました。
その結果、三十二歳にして良源門下の秀才として広く認められるようになり、講経・法会の席につぎつぎ召され、
宮中、公家社会との関係が深くなりました。ところが四十歳以後は、宮中の招にも応ずることなく、
もっぱら比叡山横川に隠遁し、学問と修業に専念されるようになりました。
この隠遁のきっかけについて『今昔物語集』は大略次のようにのべています。

『往生要集』の概要  


 源信和尚の著作は、すべてを和尚の撰述とすることには疑問ももたれますが、
諸目録に名の出ているものは総数で百六十点に達し、
『恵心僧都全集』全巻五巻に収められているものだけでも八十五部に及ぶということです。
そこに和尚の学問の範囲がいかに広く、その思想信仰が深遠であったかが示されています。
 しかもその著作の底に阿弥陀仏の信仰が流れているということです。
このような阿弥陀仏を説く著作を代表するものが『往生要集』三巻です。この書は和尚四十四歳の四月に完成したもので、
大変実践的な内容で、和尚の浄土信仰をよく表しています。それは次のような十章よりなっています。
 一、厭離穢土(えんりえど)迷いの世界を厭い離れるべきこと。
 二、欣求浄土(ごんぐじょうど)阿弥陀仏の浄土をねがい求むべきこと。
 三、極楽証拠(ごくらくしょうこ)十方諸仏の浄土の中で特に弥陀の浄土をねがうべきこと。
 四、正修念仏(しょうしゅねんぶつ)正しく修すべき念仏について。
 五、助念方法(じょねんほうほう)念仏行を助けるもろもろの事柄。
 六、別時念仏(べつじねんぶつ)平生特定の期日を定めて行う念仏と、臨終に行ずる念仏。
 七、念仏利益(ねんぶつりやく)念仏のよって得る利益。
 八、念仏証拠(ねんぶつしょうこ)念仏が諸行より往生行として勝れていること。
 九、往生諸行(おうじょうしょぎょう)諸行によって往生が可能であること。
 十、問答料簡(もんどうりょうけん)問答によって念仏を明かす。

このように実に整然とした組織をもった書物です。
 その教えの中心は、第四正修念仏です。そこに説かれる念仏というのは、
阿弥陀如来のおすがたを心に想い描き、そこに精神を集中するという観念念仏という意味の念仏です。
その精神集中を助けるために種々の方策が必要となるのです。口称の念仏も説かれてはいますが、
決して高い価値をもつものではなく、あくまでも中心は精神集中をする観念念仏にあります。
また念仏の外に諸行による往生をも認める教えです。
 このように『往生要集』の教えは、今日の浄土教のイメージとはかなり異質なものです。
それは、この書が天台宗の立場に立って作られているからです。
 ただ、天台宗の立場に立ちながら、善導大師の教えを受け入れているところに『往生要集』の大きな特徴があります。
    修行の方法は、多く『摩訶止観』および善導和尚の『観念法門』ならびに『六時の礼讃』にあり
とあるように、天台宗の修行方法を述べる根本的聖典である『摩訶止観』の教えを基本に、
善導大師の『観念法門』と『往生礼讃』の教えを融合させたものが『往生要集』の基本的性格であると考えられています。
善導大師の教えを比叡山で最初に取り容れた書物がこの『往生要集』であり、善導大師の教えを受容しているがために、
後世、この書が法然上人から高い価値を見出されるもとになるのです。

法然上人の『往生要集』の見方 

 法然上人は、四十三歳の時、善導大師の『観経疏』「散善義」の「一心にもつばら弥陀の名号を念じて
行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」
の文の深い意味を直観し、本願念仏に帰されたことはあまりにも有名です。称名念仏こそが、
衆生往生の業因として如来によって選び取られた行業である。称名は仏願に順ずる行である。
したがって称名念仏一行のみによって往生を得ることができるのであると確信されたのでした。
 そこで法然上人は、善導大師の目を通して『往生要集』を見直されました。
新しい『往生要集』の見方は『往生要集詮要』『往生要集料簡』『往生要集略料簡』『往生要集釈(大綱)』などに著されています。
それによりますと、『往生要集』には広例、略例、要例の三種の念仏が説かれているというのです。

広・略・要の三例


 広例というのは『往生要集』全体を広く見る見方をいいます。
それによると『往生要集』の中心は第四正修念仏に説かれる天台宗伝統の観念仏にあるという見方です。
すなわち、阿弥陀如来のおすがたを心に想い、精神集中する観念仏が『往生要集』の念仏であると見るのです。
 略例というのは、法然上人によると『往生要集』の内容を略して示している第五助念方法の結びの
総結要行を中心に『往生要集』を見る見方です。
そこでは往生の要として、
 ①提菩提心をおこすこと、
 ②戒律を守り身口意の三業を護りつつしむこと、
 ③深く信じること、
 ④誠を至すとと、
 ⑤常に間(ひま)なく、
 ⑥仏を念ずること、
 ⑦願に随い回向発願するこ

の七法が説かれていると法然上人は見られました。その七法の中心は称名念仏であるとされますが、
その称名念仏は、大菩提心とか、戒律によって三業を護るとかの称名以外の六法の助けをかりて、清浄な心になって申す念仏です。
念仏以外の自力の行の助けをかりて申す念仏ですから、法然上人は第十八願の念仏とは異なると見られました。
 要例とは、第十八願の称名念仏をいいます。法然上人は『往生要集』の、第四正修念仏の造略観の文、第八念仏証拠の全体の意、
第十文答料簡の往生階位の文などに、要例である第十八願の称名念仏の位が説かれていると見られました。
 しかも法然上人は要例を示す諸門の中でも、
往生階位に引用されている次の善導大師の文こそが『往生要集』全体を貫く基本であると見られたようです。
その善導大師の文は、
    もしよく上に述べたように生涯念仏を相続するものは、十人は十人ながら往生し、百人は百人ながら往生する。
    もし念仏を専修することを捨てて自力の雑行を修める者は、百人の中で希に一,二の人が往生を得、
    一千人の中で希に三,五の人が往生を得るにとどまる

とありますが、この文について法然上人は、
     源信和尚は道理を尽して往生の得否を論じているが、それを決定する手引きとして、
     善導大師の専修雑行の文を用いている。
     したがって源信和尚の教えに依る人は、かならず善導大師に帰すべきである

とあります。ここで専修とは称名念仏一行によって往生を願うこと、雑行も雑修も今は同じ意味で、
称名念仏以外の行によって往生を願うことです。このように法然上人は『往生要集』は三つの見方ができるけれども、
その正意は善導大師と同じく凡夫のための称名念仏を説く書であると見られたのです。
親鸞聖人は法然上人の見方を通して『往生要集』を見られます。それがこの書が浄土真宗伝統の聖教とされるのです。

報化二土

 親鸞聖人は主として法然上人が要例とされる文にもとづいて、「正信偈」や和讃で源信和尚を讃えられています。
それらの中で特に源信和尚の功績と讃えられるものとして特記すべきものに阿弥陀仏の報土の中に
真実の報土と化土とを分ける報化二土の見方があります。それは第十問答料簡に説かれていることで、
『菩薩処胎教』によると、ここより西方十二億那由他の所に、楽しみ極まりない懈慢界という世界があり、
阿弥陀仏国に往生を願った人は、懈慢界の楽しみにとらわれて、浄土に往生できる人は億千万に時に一人にすぎないとある。
はたして往生できるのかと問い。その答えととして、懈慢界に生まれるのは、執心不牢固の雑修の人である。
極楽国土に生まれる人は、執心牢固な専修の人であるとし、極楽国を報の浄土、懈慢界を化の浄土と名づけ、
二土に生まれる原因の違を明らかにされています。執心不牢固とは信心が頑固でない自力信心のこと、
執心牢固とは信心頑固な他力信心をいい、雑修とは念仏以外の行を修すること、専修とは十八願他力念仏を意味します。
それで他力信心の専修の人は報の浄土に生まれるけれども、自力信心の雑修の人は化土にしか往生できないのだと説いて、
専修と雑修の得失を判定されています。「正信偈」に、
    専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり
とあるのがそれです。自力の信心を誡め、他力の信心を勧められていると源信和尚を讃えられるのです。
 ただここで注意しなければならないのは、化土というのは、善導大師の時代に阿弥陀仏の浄土が
報土か応化土かと論議された報土に対する応化土の意味ではなく、阿弥陀仏の報土の中に真実の報土と化土とがあり、
十八願の行者は真の報土に往生できるけれども、十九願・二十願の行者は、化の報土にしか往生できないと、
報土の中にさらに報土と化土を分けられたのです。
 このような見方は『大経』をはじめ、七祖の上でも、その意はうかがうことができますが、明確にこれを示して、
専修・雑修の得失を説かれたのは、源信和尚の功績であるとされたのです。

地獄について

『往生要集』をめぐる問題として、今回は地獄の思想と臨終来迎の思想について述べたいと思います。
 『往生要集』といえば、一般に地獄・極楽を説く書物と考えられています。
しかしそれは正しい見方ではありません。
この書は十章より成っており、第一章に、「厭離穢土」として、迷いの世界である
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六つの迷いの因果
に縛られた境界が示されています。

これに対して、第二章「欣求浄土」、第三章「極楽証拠」では迷いの因果をこえた、さとりの世界である極楽浄土のすばらしさを示して、
浄土を願うべきことを勧め、第四章「正修念仏」より以下で、浄土往生の実践法として念仏が詳しく説かれています。
この部分が『往生要集』の中心であることは前回も述べました。
ですから地獄・極楽を説く「厭離穢土」「欣求浄土」の部分は、『往生要集』の序文にも相当する部分なのです。
 また地獄は、餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上とともに迷いの因果に縛られた境界の一つであり、
この六道に対し、さとりの世界として極楽があるのです。ですから六道輪廻の世界と極楽といういい方なら正しいけれども、
地獄に対して極楽という表現は適当ではありません。
 それでは、どうして『往生要集』といえば、地獄・極楽を説く書物と考えられるようになったのでしょうか。
その一つは六道の迷いの中で地獄の描写がもっとも詳しく、迷いの世界の描写の六割を占めていることがあげられます。
源信和尚はそれほどまでに地獄に注意をはらわれ、人間の罪深さを強調されているのです。
 しかし『往生要集』が地獄・極楽を説く書といわれるようになったのは、主に江戸時代以後、
庶民を対象にした絵入りの平仮名『往生要集』が何度も刊行され、それが流布したことでした。
それも「厭離穢土」「欣求浄土」の部分のみの刊行でした。そのため『往生要集』は地獄・極楽を説く書と考えられるようになったのです。

地獄の本質

 七高祖の聖教の中で最も組織立てて、地獄を説いているのは『往生要集』ですから、
今この書によって地獄とは何かを考えてみたいと思います。
 迷いの世界は因果に繋がれた世界であると考えられています。善因楽果、悪因苦果の法則が支配している世界ということです。
その迷いの世界の中で、悪行の結果として最も激しい苦を受ける境界が地獄です。
それは悪行によって感じられる境界であると言いかえてもよいでしょう。悪行が地獄の苦を作っているのです。
同じ地獄に居ながら、閻魔王や獄卒(地獄の鬼)には、そこは決して苦悩の世界ではないのです。
ただ悪を行ったもののみが苦を感じるのです。その意味で地獄は決して客観的にある世界ではないと思います。
地下どれだけかの所にあると表現されていますが、それはあくまでも、比喩的な表現として理解すべきだと思います。
悪を行ったものが感じる心の闇の世界の表現だと思います。悪行によって地獄と感じるのですから、業が尽きた時、
地獄と感じなくなる、地獄そのものが消滅することになります。
地獄におちた人に寿命があるとありますが、その寿命は罪の深さの表現にほかなりません。

地獄の具体相

 さて『往生要集』では地下深くに罪人の趣く場所として、罪の軽い方から重い方に順に地下深くに向かって、
 ①統括地獄(とうかつじごく)、
 ②国縄地獄(こくじょうじごく)
 ③衆合地獄(しゅうごうじごく)
 ④叫喚地獄(きょうかんじごく)
 ⑤大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)
 ⑥焦熱地獄(しょうねつじごく)
 ⑦大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)

と降り、一番深い所に最も罪の重い者の趣く
 ⑧阿鼻地獄(あびじごく)
があると説かれています。
 いま試みに統括地獄のありさまを見ると、次のように説かれています。
    この地獄は地下一千由旬の深さにあり、広さは縦横一万由旬である。
    その中の罪人はお互いに常に危害を加えようとする心を持っている。
    そのためにもしたまたま逢うことがあると、それぞれの鉄の爪で互いにつかみ合い引き裂きあい、
    血をすすり肉を喰らい骨だけにしてしまう。あるいは獄卒が手に鉄の杖、鉄の棒をにぎりしめ、
    頭から足に足るまでくまなく打ち突くと、身体は粉々に砕かれ土の塊のようになってしまう。
    あるいは鋭利な刃物で料理人が魚や肉を切り刻むように、切り裂いてしまう。
    ところが一陣の涼風が吹くと、やがてもとのように活きかえり、前と同じような苦を受ける、
    この統括地獄におちた者は、この地獄の時間にして五百年寿命が尽きることはない。
    ここには生きるものを殺した者がおちる

とあります。
 源信和尚は統括地獄の記述によって何を訴えようとされているのでしょうか。私は次のように思います。
われわれの日頃の生き方は、他人の罪やあやまちは見えるけども、自分の罪やあやまちはなかなか気づきません。
また気づいたとしても、自分の罪やあやまちはひた隠しにし、他人の罪やあやまちは非難攻撃し、いいふらすことを憚りません。
このようなことを互いに繰り返しているのがわれわれの日頃のすがたではないでしょうか。
地獄の罪人が互いに敵意をもって鉄の爪で害し合うことがありますが、私たちのこのような罪深さを比喩的に表現されているのでしょう。
統括地獄は殺生の罪人の趣く所です。しかし現実に殺生の罪しか犯さない人はいません。
国縄地獄は殺生と盗みの罪人が趣く所です。これも現実には二つの罪しか犯さない人はいないはずです。
外の地獄についても同じことがいえると思います。地獄の記述は現実にないことを述べられているのですから、
それは比喩的な表現として、それによって何をいわんとされたのか考えねばなりません。

人間の罪悪性 

 さて、人間の罪悪性について、聖道門と浄土門とで考えに違があります。
聖道門では、今の自分は罪深くても、それは修行によって自分自身の努力で罪が除かれると考えます。
それに対して、浄土門では、自分は罪悪深重であり、自分自身の力では罪はどうしても除くことはできない。
仏果を得るためには仏力他力によらなければならないと考えます。この『往生要集』は、表面的には聖道門の書物です。
地獄について多くを語り、人間の罪深さを詳しく示していますが、表面的には自力の修行によって罪を除き、
浄土に往生することを説く書と考えられます。しかしその底流には「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」とあるような悪人の救いが説かれているのです。

来迎について

『往生要集』がはたした歴史的役割の大きなものに臨終来迎の思想があります。
臨終来迎については、浄土三部経の一々にもこれが説かれ、道綽禅師や善導大師もこれを語っておられます。
しかし、七高僧の中で源信和尚ほどこれを詳しく説かれた方はありません。
これをわが国に広められたのは源信和尚でした。『往生要集』には次のように説かれています。
      念仏の功徳を永く積んだ人の臨終には、阿弥陀如来が多くの菩薩や聖衆と共に大光明を放って目の前においでになる。
     その時、観音菩薩は慈悲の御手をさしのべて、宝の蓮台をささげ持って念仏行者の前においでくださり、
     また、大勢至菩薩は数えきれないほど沢山の聖衆と共に、声をそろえて行者をほめたたえ、
     手をさしのべて浄土へ連れていってくださるのです。この時、念仏行者は、目のあたりにこれを見て、
     心は喜びに満たされ、心身ともに安らかとなり、この上ない静かな境地に入るのです。そのようなわけで、
     草の庵で目を閉じた時がそのまま蓮台に坐る時であり、阿弥陀如来の後に従って、
     菩薩方にまじって一瞬の間に西方極楽浄土に生まれるのです。

 そしてまた、来迎にあずかるための具体的な事項を『往生要集』では、「臨終行儀」という一節に詳しく説かれています。
 その他来迎にあずかるために用意されたものが来迎図です。
今日まで数多くの来迎図が伝えられていますが、その中には源信和尚の構想の後をとどめるものもあるそうです。
来迎図のそのはじまりは源信和尚の発案にもとづくようです。
 それと共に記憶に留めたいのは、迎講です。それは和尚六十歳頃以後に横川華台院ではじめられたものです。
早見侑氏によれば、来迎行者の講という意味で、極楽や阿弥陀如来のありさまを眼前で髣髴させて、
結縁の人びとをその身のまま極楽に往詣したかのような思いにひたらせ、
仏道に向かわせる一大ページェント(お練り行道)であったといわれています。それは童子たちが浄土の聖衆に分し、
僧侶たちに手を引かれ、雅楽に合わせ、和讃を詠じ、念仏しつつ来迎するお練り行道です。
道俗貴賤結縁の人々は、放蕩邪見の輩までも目のあたり阿弥陀如来の来迎にあずかる法悦の涙にむせんだということです。
尚今日、和尚ゆかりの当麻寺に、この迎講が原型に近い形で伝承されているということです。
それはともかく、今日まで多くの来迎図が伝えられているにつけても、
和尚がそれらによって浄土教を広められた歴史的功績の大きさは高く評価されなければなりません。
源信和尚がでられたからこそ、法然・親鸞聖人の教えがあることを強く感じるのです。
 ただしかし、地獄の思想がそうであったように、来迎思想も基本的には自力的な考えです。
浄土三部経には第十九願・二十願的思想と関連して説かれてるばかりでなく、聖道の経論にも来迎が説かれています。
それらの教えは、臨終の一瞬の心は、百年の修行より勝れている。この刹那をすぎると、
次にどこに生まれるか決まってしまうと考えるのです。それは臨終が特に重い意味をもつわけです。
そこで臨終に如来にお迎えをいただき、それをこの目で確かめて、如来に導かれて浄土に往生しようとするのです。
それには条件があります。如来のお迎えをいただき、如来を拝見するには、罪を除いて清らかな心になり、
静かな心で弥陀を念じなければなりません。このようにわれわれの罪は自分で除いて往生するというのが、
源信和尚の臨終来迎に他する基本的な考え方です。

親鸞聖人は不来迎

 このような林樹来迎の考えは、親鸞聖人の教えと大きく異なります。
親鸞聖人の教えは、自分の罪は重く、それをどうすることもできない。それで罪をもったまま本願力におまかせするのです。
信じたそのとき、如来に摂取不捨されますから、臨終来迎を期待する必要な全くないわけです。
そのことを親鸞聖人は、
     真実信心の行者は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
     このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
     信心の定まる時往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず

と示されています。


親鸞聖人の『往生要集』の見方

さて、『往生要集』は地獄の思想にしろ、臨終来迎の思想にしろ、
表面的には聖道門自力的な教えに相違ありません。
それはすでに法然上人もそのように見られたのでした。
 法然上人によれば、この書は表面的には観念念仏を説く書であると見られました。
観念念仏というのは、仏のお姿や浄土の有様を心に思い、そこに精神を集中する行です。
しかし法然上人は、この書が道綽禅師・善導大師の念仏の教えを勧めていることにも注意されました。
道綽・善導の念仏の教えというのは、愚悪の凡夫が本願他力の念仏によって、真実の報土に往生できるという教えです。
『往生要集』は観念念仏を説きながら、観念念仏のできない人の往生にも深い注意をはらっている書物です。
そのようなことを考えると、この書に引用されている善導大師の次の言葉、
「称名念仏を相続する人は、十人は十人ながら、百人は百人ながら往生できる」、
すなわちすべての人がみな阿弥陀仏の浄土へ往生できるという善導大師の教えこそ『往生要集』に対する見方を
親鸞聖人も受け継がれました。
    専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ
と詠われるものもそれをあらわしています。
 他力念仏を勧めるのが真意なら、どうして聖道自力的な教えを説かれたのでしょうか。
相は当時の聖道門の人々を、他力念仏に引き入れる方便だったともいわれています。

                                                             黒田 覚忍 先生

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