拝読 浄土真宗のみ教え


          親鸞聖人のことば

 人生そのものの問い

            日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、
           身近な方が亡くなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために
           生きているのか」「死んだらどうなるのか」この問いには、人間の知識は答えを示せ
           ず、積み上げてきた経験も役には立たない。目の前に人生の深い闇が口を開け、不安
           のなかでたじろぐ時、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。親鸞聖人は仰せになる

           弥陀の誓願は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり

           「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火
           となる。この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどう
           なるのか」この問いに確かな答えが与えられる。 


 凡夫 

           親鸞聖人は仰せになる。

               凡夫といふは 無明煩悩われらが身にみちみちて 欲もおほく いかり はらだち
        そねみ ねたむこころ おほくひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず
        きえず たえず


           凡夫は、、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。すべての
           ことを私中心にみて争いをおこし、欲望・怒り・妬(ねた)みに、心と身体を悩ま
           せ苦しみ続ける。仏法に出あうとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のこと
           でもなく、この私のことと気づかされる。念仏申すひぐらしの中に、ありのままの
           私の姿を見せていただく。
 
 真実の教え

            あらゆる者を救いとる教えこそ真実の教え、究極の教えである。
           親鸞聖人は仰せになる。

           それ真実の教(きょう)を顕(あらわさ)さば
           すなわち「大無量寿経」これなり


           「大無量寿経」には、あらゆる人を念仏一つで救おうと誓われた、阿弥陀如来の
           本願が説かれている。釈尊は その生涯をとおしてさまざまな教えを説き広められ
           た。この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦(よろこ)
           びにあふれ、気高く光り輝いておられた。あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の
           本願を説くことこそ、釈尊がこの世に出られた目的だったからである。


 限りなき光と寿(いのち)の仏  

           阿弥陀如来がさとりを開く前、法蔵菩薩であったとき、すべてのものを救うため、
          限りない光と寿をそなえた仏になろうと誓われた。そして果てしない修行の末に、
          その願いを成就して、如来となられた。阿弥陀とは無量をあらわす。阿弥陀如来は、
          その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂(おさ)め取ってくだ
          さる。その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。
          親鸞聖人は仰せになる。

          十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の  念仏の衆生(しゅじょう)をみそなわし
          摂取(せっしゅ)してすてざれば  阿弥陀となづけたてまつる

          たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでも
          はたらき続ける仏がおられる。その仏を、阿弥陀如来と申し上げるのである。


 他力本願

          親鸞聖人は仰せになる。

          他力といふは如来の本願力(ほんがんりき)なり

           他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。他力本願は、
          如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることでは
          ない。阿弥陀如来は48の願いを発(おこ)して仏となられた。その願いの根本である
          第18の願は「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」
          という願いである。如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび
          声となって、われにまかせよとはたらき続けておられる。このはたらきを他力といい、
          本願力というのである。阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、
          如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。



 如来のよび声   

           阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
          名号は、如来の智慧と慈悲を円(まど)かに具(そな)えた、救いのはたらきそのもの
          である。親鸞聖人はこの如来の名号を、

          本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)なり

          と仰せになる。南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび
          声である。如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選
          び取られた。如来の み名は、遍(あまね)く世界に響きわたり、この真実の救いにま
          かせよと、よび続けておられる。そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となっ
          て、今ここに至りとどいている。念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせてい
          ただく。



 聞くことは信心なり

           母に抱かれて笑う幼子(おさなご)は、母の慈しみを信じて疑うことがない。慈愛に
          満ちた声を聞き、ただその胸に身をまかせ、大いなる安心のなかにある。親鸞聖人は
          仰せになる。

          聞其名号というは本願の名号をきくとのたまえるなり  きくというは本願をききて
          疑うこころなきを聞というなり またきくというは信心をあらわす御(み)のりなり


          南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との慈愛に満ちた如来のよび声。
          このよび声をそのまま聞いて疑うことがない、それを信心という。
          自分の見方を より処(どころ)とし、自分勝手な思いで聞くのであれば、如来の
          慈愛のよび声をそのままに聞くことにはならない。
          母の慈愛の思いが、幼子の安心となるように、如来のよび声が、そのまま私たちの
          信心となる。



 今ここでの救い  

          念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて救いにあずかるのではない。いま
          苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の願いは、はたらきかけられている。
           親鸞聖人は仰せになる。
          
          信心の定まるとき往生また定まるなり

           信心いただくそのときに、たしかな救いにあずかる。如来は悩み苦しんでいる私を、
          そのまま抱きとめて、決して捨てることがない。本願のはたらきに出あうそのときに
          煩悩をかかえた私が、必ず仏になる身に定まる。苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に
          出あうとき、もはや苦悩のままではない。阿弥陀如来に抱かれて人生を歩み、さとり
          の世界に導かれていくこととなる。まさに今、ここに至りとどいている救い、これが
          浄土真宗の救いである。



 愚者(ぐしゃ)のよろこび

           阿弥陀如来は「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけておられる。そのよび声を
          通して、確かな救いのなかにあることをよろこぶとともに、ありのままの私の姿を
          知らせていただく。如来の光に照らされて見えてきた私の姿は、煩悩に満ちみちた
          迷いの凡夫であった。確かなものなど何一つ持ち得ない愚かな私であったと気づか
          される。親鸞聖人は、法然上人より

          愚者になりて往生す

          との言葉をうけたまわり、感慨をもってお手紙の中に記(しる)された。
          このような私だからこそ、救わずにはおれないと、如来は限りない大悲を注いで
          おられる。この深き恵みをよろこばせていただくより他はない。



 報恩の念仏  

           阿弥陀如来は、迷いのなかにある私たちを哀れみ悲しまれ、そのままに救いとると
          はたらかれている。浄土真宗の救いは、この如来のはたらきを信じる心一つで定ま
          り、念仏は救われたよろこびが声となってあらわれ出たものである。親鸞聖人は仰
          せになる。

            ただよくつねに如来の号(みな)を称して
          大悲弘誓の恩を報ずべしといへり


          如来は私たちを救いとって見返りを求めることがない。はかりしれない如来のご恩
          は、決して返すことのできない大いなる恵みである。私たちは、ただそのご恩をよ
          ろこび、感謝の思いを念仏の声にあらわすばかりである。これを報恩の念仏という。
          救いのよろこびを恵まれた者は、報恩の思いから、つねに南無阿弥陀仏と念仏申す
          べきである。


 浄土への人生

           阿弥陀如来は、煩悩によってさとりに至ることのできない凡夫を哀れみ、あらゆる
          功徳を南無阿弥陀仏に込めて私たちにふり向けておられる。親鸞聖人は仰せになる

          臨終一念の夕 大般涅槃を超証す

          いのち終えるとき、すみやかに浄土に生まれ、この上ないさとりを開かせていただ
          く。南無阿弥陀仏のはたらきに出あうものは、むなしい迷いの生を二度とくり返す
          ことはない。如来のはたらきに出あう人生は、無常のいのちを生きながら、かなら
          ず さとりの浄土に生まれゆく、むなしく終わらぬ人生である。



 自在の救い

           念仏申し浄土へと先だっていかれた方々は、この世界にかえり来て、私たちを念仏
          の教えに導いてくださっている。親鸞聖人は仰せになる。

          安楽浄土にいたるひと  五濁悪世(ごじょくあくせ)にかへりては
        釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて 利益衆生はきはもなし


          浄土で仏となった方は、大いなる慈悲の心をおこして、迷いのなかで苦しむすべての
          ものを救いたいとはたらき続ける。さまざまな縁を通して私たちを仏前に誘(いざな)
          い、仏法聴聞を勧めてくださっている。そのはたらきは、釈尊が巧みに人々を教化さ
          れたように、自在であり限りがない。私たちは、多くの先人たちの導きによって、同
          じように浄土への道を歩ませていただく。この道は、凡夫が浄土で仏となり、自在の
          救いを行うことができる尊い道である。



 光の浄土

           浄土は、無量の光に満ちあふれた世界。如来の智慧が光となって輝き、限りなくはた
          らき続けるさとりの世界である。親鸞聖人は、阿弥陀如来のの浄土をお示しになり

          無量光明土なり

          と仰せになる。如来の浄土へ生まれるならば、その光のはたらきにより、いかなる煩
          悩も、浄土と同じさとりの功徳へと変えられる。それはあたかも、海へと流れ込む川
          の水が、すべて一味の海潮(うしお)となるような、広大なるはたらきである。念仏
          の教えをいただく者は、限りない光の浄土へ生まれ、この上ないさとりの利益を恵ま
          れるのである。



 美しき西方浄土

           経典には、阿弥陀如来の西方浄土が清らかな蓮華が咲き、麗(うるわ)しくかざられた
          さとりの浄土として説かれている。親鸞聖人は、安楽浄土のさまざまなありさまを

          法蔵願力のなせるなり

          と仰せになる。
          美しい浄土のありさまは、「迷いの凡夫を我が国に生まれさせ、必ずさとりに導きたい」
          という阿弥陀如来の願いの力によってできあがっている。凡夫は、さとりの世界に背を
          向け、迷いの世界にあり続けている。阿弥陀如来はそれを哀れみ、さとりの内容を凡夫
          に応じて示される。美しくかざられた安楽の世界を、夕陽の沈む西方に建立して凡夫の
          到るべき世界を指し示し、浄土に生まれさせてさとりに導かんと願われるのである。


 かならず再び会う

           先立った方々を思えば、在りし日の面影を懐かしく思うとともに、言いようのない寂し
          さを覚える。親鸞聖人は、お弟子に宛(あ)てた手紙の中で仰せになる。

          浄土にてかならずまちまゐらせ候ふべし

          再び会うことのできる世界がそこにある。今ここで、同じ信心をいただき、ともに阿弥陀
          如来の救いにあずかっている。だからこそ、かならず浄土に生まれて再び会える確かさを
          今よろこぶことができる。
          本願の教えに出あえた時、今ここで救われ、再び会うことのできる世界が恵まれる。

折々のことば

●お正月
●お彼岸
●お 盆

●報恩講

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