法然房源空上人の誕生

 法然房源空上人は、美作国(岡山県)久米南条稲岡庄に誕生されました。
平安時代の末、長承二年(1133)のことでした。
父は久米の押領使(治安を任務する地方豪族)漆間時国、
母は同じ美作国の秦氏の出身だったといわれています。

父の遺言

 保延七年(1141)法然上人九歳の時、稲岡庄の預所(荘園の管理者)明石定明の夜襲にあい、父時国は亡くなりました。
時国は死に臨んで一人子の法然上人に次のように遺言しました。
    私はこの傷によって死んでいかねばならない。しかし、決して敵を恨んではなりません。
    もしもお前が敵を討つならば、親から子へ、子から孫へと、敵討ちの争いは絶えることはありません。
    生きているものは誰でも死にたくはないのです。私はこの傷を痛いと思います。私はこの命を大切だと思います。
    人もまたそう思わないはずはありません。自分のみに引き当てて考えなければなりません。
    だから、ただただ自分も他人も共に救われることを願い、恨みの心なく、親しいものも、
    親しくないものも共に一緒に救われることを思ってほしいのです。

このように言い終わって、念仏と共に命終わったということです。

出家と求道

 法然上人は父の遺言に従い、その後間もなく菩提寺に入り、観覚のもとで僧となりました。
観覚は法然上人の非凡さを見抜き、比叡山の源好の門に送りました。天養二年(1145)十三歳のことでした。
やがて上人は久安三年(1147)十五歳の時、皇円の弟子となり天台三大部を学びました。
しかしこの頃の比叡山は、地位や権力を奪い合う俗世間とかわらない有様でした。
そこで上人は世間的栄達の道を捨てて、生死を超える道を求めて、黒谷の別所の叡空の門に移りました。
久安六年(1150)十八歳のことでした。黒谷は名誉や地位を捨てて真剣に道を求める念仏者の集まる所でした。
上人はここで念仏聖の一人になられたのです。
黒谷は源信和尚の『往生要集』にもとづいた二十五三昧会が続けられている所でもありました。
上人は叡空より戒律や密教、それに『往生要集』について学びました。
上人は『往生要集』に説かれている称名念仏に引かれるものを感じながら、多くの疑問を持ち続けていました。
 保元元年(1156)二十四歳の上人は、京都嵯峨の釈迦堂に参籠された後、奈良に趣かれ興福寺や東大寺の学者に会い、
教えを聞かれ、広く生死を超える道を求められました。しかし、上人の期待するものは得られませんでした。
ただ奈良には善導大師の教えを強く受けて称名念仏によって往生を得ることを説く永観や珍海の教えが伝えられていました。
これらの教えは、比叡山とは伝統を異にする浄土教でした。
おそらく上人は奈良遊学ではじめて南都浄土教を学ばれたものと思われます。
 その後ふたたび黒谷に復り、求道に励まれました。上人の心は次第に善導大師の教えに傾いていきました。
しかし、称名念仏一つによって救われるという確かな信念は得られませんでした。

上人の回心


 承安五年(1175)いつものように黒谷の経蔵にこもって、一切経を読みふけっていた法然上人は、善導大師の『観経疏』「散善義」の、
     一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、
     これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり

の文に至って心の闇が晴れ、念仏往生の教えに帰依されたのです。時に法然上人四十三歳のことでした。

東山吉水に移る

 善導大師の称名念仏一行のみのよって往生を得るという教えは、
黒谷に伝えられている叡山浄土教を雑行雑修として捨て去ることでもあります。
善導大師の称名念仏の教えに帰依された法然上人は黒谷に留まることはできませんでした。
その頃、京都西山の広谷に遊連房円照が善導大師の念仏の教えを実践していました。
黒谷をでた上人は、円照をたよって広谷に赴かれました。しかしほぼ2年後に円照は病死されました。
そこで上人は広谷を引き払い、その房舎を東山吉水に移築して住まわれることになりました。

『選択本願念仏集』の制作


 その後、文治六年(1190)法然上人五十八歳の時、東大寺大勧じんである俊乗房重源の招によって
再建途中の東大寺の軒下で浄土三部経の講義をされました。
また建久五年(1194)上人六十二歳頃、安楽房遵西の父、外記入道師秀のために五十日の逆修説法をされました。
これらの講義を門弟が記録したものはあります。しかし上人御自身が著述されたまとまった教義書はそれまで何もありませんでした。
そこで上人に深く帰依していた九条兼実は、その著述を上人に願い出ました。
それに応じて作られたものが『選択本願念仏集』です。建久九年(1198)上人六十六歳のことです。
この書は聖道門の人々から猛反発を受けることを、上人自身深く見ぬいておられました。
そこでその書の末尾には「庶幾はくは一たび高覧を経て後に、
壁の底に埋みて、窓の前に遺すなかれ」と他人に見せることを禁じた非公開の書であることを付け加えられています。

流罪と往生


 法然上人の念仏の教えが広まると共に、聖道門の教団との間に摩擦が起こり、それが次第に激しくなり、
聖道門の教団から念仏停止の声が強まりました。それに対して上人は、元久元年延暦寺座主に「七箇条制誡」を送り、
門弟が言行を慎むことを誓っています。さらにその翌年元久二年奈良の興福寺から念仏停止の奏状が出され、
執拗にその実行が要求されました。
こうした状況の中で安楽・住連の催す別時念仏に、院の女房(鈴虫、松虫)が結縁して出家するという事件が起きました。
これをきっかけに建永二年(1207)専修念仏は停止され、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後に流罪となりました。
建永二年は承元と改元されますので、建永の法難とも、承元の法難ともいわれています。時に上人七十五歳のことでした。
 流罪の命令が上人のもとに伝えられた時、居合わせた門弟に上人は次のように話されたということです。
     私は流罪になったことを決して恨んではいません。それどころか、念仏を広めることは京都では長年のことでしたが、
    地方に勧めることは、前々から希望していたことです。しかしその機会がなかったのでできませんでした。
    今その縁ができて、これまでの願いをはたすとができるのです。これは大変な朝廷のご恩というべきです。
    念仏の教えがひろまることは、人が止めようとしてもそれは決して止まるはずはありません。

上人はこのように話して土佐に向かわれました。
 建暦元年(1211)上人七十九歳の暮れ、許されて京都東山に帰られました。
しかし翌年正月二日より死の床につかれました。上人も弟子たちも往生の近いことを感じていました。それで高弟の信空が尋ねました。
    古来先徳はみな遺跡があります。しかし、上人は一つの寺院も建立されませんでした。
    ご入滅後はどこを遺跡とすべきでしょうか。

上人は答えておっしゃいました。
     遺跡を一箇所に限れば教えはひろまりません。私の遺跡は地方各地にゆきわたっています。
     そのわけは、念仏を広めることが私の一生の勤めでした。
     ですから念仏の声のあるところ貴賎を問わず、どのような所でもみな私の遺跡です。

 その後も上人の老衰は次第に深まりました。往生の前々日、一月二十三日、
源智の請いによって念仏の肝要を一紙に記されました。
それが「一枚起請文」と呼ばれているもので、上人の絶筆となりました。
上人は往生の前日まで念仏を伝えることに心をかけられましたが、一月二十五日念仏の声と共に往生を遂げられたということです。
建暦二年(1212)八十歳のことでした。

著書について

 法縁上人入滅後、四十四,五年後の康元元年から翌年にかけて、
親鸞聖人は法然上人関係の記録を集めた『西方指南鈔』という書物を書写されています。またこれより十八、
九年後の文永十二年に浄土宗の了恵道光が『漢語灯録』『和語灯録』『拾遺語灯録』
という法然上人関係の記録を集めた大著を編集されました。これらを受けて昭和三十年『昭和新修法然上人全集』が作られ、
今日広く用いられています。
 その『全集』の内容は、
①教義篇(『無量寿経釈』、『選択本願念仏集』ほかを収める)
②法語類篇(「一枚起請文」ほかを収める)
③消息篇(手紙を集めたもの)
④対話篇(問答体で教えを説いたもの)
⑤伝語篇(上人からの伝聞を集めたもの、『歎異抄』の信心一異の淨論ほか)
⑥制誠篇(「七箇条制誡」ほか)
⑦雑篇(以上の六篇に入らないもの)
⑧伝法然書篇(上人のものかどうか真意未詳のもの)より成り、千二百頁に及ぶ大部な書物です。

 上人には自筆の書物はなく、講義や法話はみな聞書きです。
それは他人の記録ですから自筆の書物のように完全に著書の考えを伝えているといえない面があります。
また書物が伝えられてくる間に伝えた人々の考えが付け加えられていると考えられるものもあります。
さらに上人の名を借りた為作まで混じっているようです。そこで上人の自筆ではありませんが、
門弟に指示して制作された『選択本願念仏集』によって上人の教えを知ることが最もよいと考えられています。

『選択本願念仏集』

 この書の内容は、題名の通り「往生の行として阿弥陀仏の本願に選びとられた念仏」について明らかにされたものです。
それは上人の意によれば、聖道門の人々が尊んでいる自力の修行は、
阿弥陀仏が価値が低い行として選び捨てたものであるということです。このことは、
従来の聖道門・自力の仏教とはまったく異なる新しい仏教、浄土門の教えを日本ではじめて明らかにするばかりでなく、
聖道門の教えを捨てて、浄土門に帰することを勧めるものでしたから、その与えた影響は実に大きなものがありました。
 この書は、①二門章、②二行章、③本願章、④三輩章、⑤利益章、⑥特留章、⑦摂取章、⑧三心章、
⑨四修章、⑩化讃章、⑪讃歎念仏章、⑫念仏付属章、⑬多善根章、⑭証誠章、⑮護念章、⑯慇懃付属章の十六章から成っています。
 この十六章の中で、特に大切なのは初めの三章です。
この三章に、称名念仏が如来によって選ばれた衆生往生のための行であることを明らかにされています。


時機相応の教え

 平安時代の中頃、源信和尚の頃から、次第に社会秩序が乱れてきました。
その頃から末法の時代になったと考えられるようになりました。その後、末法に入ったことを印象的に示す事件が起きました。
法然上人二十四歳の時、保元元年に起こった保元の乱です。
この乱は天皇家では兄の崇徳上皇と弟の後白河天皇とが皇位継承で対立しました。
これに摂関家の藤原頼長と藤原忠通の兄弟が相分かれて敵と味方になって結びつき、
さらに源氏と平家の武士をそれぞれ味方につけて戦った内乱でした。武士もまた父と子、叔父と甥とが敵味方に分かれて戦ったものです。
その結果、後白河天皇の側についた源義朝には敗れた自分の父、源為義の首を斬らせ、
平清盛には敗れた叔父である平忠正の首を斬らせたということです。
京都が戦乱の場となったことに加えて三百年以上なかった死刑がこんな形で復活したのです。
このことは代に大きな衝撃を与えました。自分の利益のためなら兄弟、親子と雖も容赦なく切り捨てる時代になったのです。

 国家の頂点に立つ人々がこんな有様ですから、政治の混乱は天災地変をより一層深刻なものにしました。
群盗が横行し、放火、殺人が行われ、大火も何度もあり、疫病も流行しました。
大飢饉の時など京都では四万人を超える多数の人々が亡くなったそうです。
 こうした庶民の苦悩を救わねばならない仏教界はどうだったでしょうか。
当寺の大寺院は、広大な荘園を持ち、多数の僧兵を養い、時には朝廷をも動かす世俗的な集団でもありました。
そして、しばしば争いを繰り返していました。歴史年表を見ると、その争いの多さに驚きます。
延暦寺、園城寺、興福寺、薬師寺、東大寺、金峯山寺、清水寺などの寺々が対立したばかりでなく、
延暦寺の僧が座主と対立し、延暦寺西塔の僧と東塔の僧が対立、清水寺の僧が相争うといった具合に、
一寺院の内部でも対立抗争を繰り返していました。
 僧侶の堕落を『沙石集』巻三には「末代は、身は出家に似て、剃髪し墨染めの衣を着、
煩悩を離れた清浄な教えを学びながら、かえってこれを名利栄花を得る手段とし、出世を第一とし、冨貴を得ることを志し、
進んで国師となり、望んで高官を貪る。実に末代の道義の衰えは悲しいことである。」と嘆いています。
このような状態は、法然上人よりかなり以前から続いていることでした。
 末法の時代は、教えはあっても、修行することも、さとりを得ることもできない時代であるとされていますが、
当時の仏教界は正に末法時代の様相を示していました。
 どんな深遠な論理を持った教えであったとしても、その時代の状況と、その時代の人々の能力に相応した教えでなければ、
人々を救う力にはなりません。四十三歳で浄土門に帰依された法然上人は、称名念仏の教えこそ、
末法の時代の罪深い凡夫が救われる時機相応の教えであることを確信されたのです。

聖道門を捨てて浄土門に入れ

 そこで『選択本願念仏集』(以下『選択集』と省略)を作って浄土門が一宗として独立すべきことを宣言されたのです。
第一章に、「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する門」と示して、
道綽禅師の聖淨二門判によって浄土宗を立てることを宣言されています。
仏教では一宗として独立するためには次の四条件が必要であると示されています。
(1)教判
 各宗には教判がありますが、浄土宗の教判は、道綽禅師の聖淨二門判です。
その聖道門というのは、南都六宗と平安時代の天台宗、真言宗を合わせて八宗、さらに禅宗を加えて九宗をいい、
苦悩の世界で修行し、苦悩の世界でさとりを得ようとする教えです。浄土門というのは、
称名念仏によって浄土に往生してさとりを得る教えです。
法然上人は従来からあった全仏教八宗、九宗を一括して聖道門とし、これを捨てて、浄土門に帰することを強く勧められたのです。
   たとひ先より聖道門を学する人といへども、もし浄土門にその志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。
   例するに、かの曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、
   道綽禅師は涅槃の広業をさしおきてひとへに西方の行を弘めしがごとし。
   上古の賢哲なほもつてかくのごとし。末代の愚魯むしろこれにしたがはざらんや

その勧めは厳しいものでした。あれかこれか二者択一を迫るものでした。
それは念仏の教えのみが末法の時機相応の道であるという信念から出た言葉でした。
(2)宗名
 浄土宗という宗名はすでに元暁(617~686?)の『遊心安楽道』、慈恩大師窺基(632-682)の『西方要決』、
加才の『浄土論』などの先例があり、決して新しい宗名でないと示されています。
この浄土宗という宗名は、一宗としての独立した浄土門についてつけられた名前です。
浄土に往生してさとりを得る教えを浄土宗と名づけられたのです。
(3)経論
 浄土宗が拠り所とする経論は、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経と天親菩薩の『往生論』であると明示されました。
私たちは今日浄土三部経という言葉を使いますが、これは法然上人の「この三経を指して浄土の三部経と号す」
と名づけられたことに始まるのです。名法然上人は『往生論』を拠り所とするとされますが、上人の書物の中には、
どこにも『往生論』の教えについて触れられるところはありません。
『往生論』は後に親鸞聖人によってその深い意味が明らかにされることになるのです。
(4)相承
 一宗を独立するためには、教えの伝統を示さなければなりません。相承とは、各宗の教えが師から弟子へ、
弟子から孫弟子へと次第に伝えられてきた教えの伝統をいいます。
法然上人は、いま独立した浄土宗は道綽・善導の伝統を受けつぐものであり、
曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・懐感法師・少康法師の五師の伝統をつぐと考えられていたようです。
 ただいちおう、五師の伝統を立てられてはいますが、
法然上人はこの五師の中でも特に善導大師一人の教えを根拠にして浄土宗の教えを立てられたのです。
それは、「偏に善導一師に依る」とあることでもわかります。
この「偏に善導一師に依る」という言葉こそ、法然上人の教えの伝統を的確に表現した言葉です。

雑行を捨てて正行に帰す

 浄土宗の行について明らかにされるのが第二章(二行章)です。
この章に、法然上人の行についての根本的な考え方が示されています。
それは善導大師の教えに基づいていますので、「善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文」と示されています。
善導大師は、往生の行について正行と雑行との二種の行があり
その雑行を捨てて正行によって往生できると信じて実践すべきだと勧められています。
この善導大師の教えに依るべきだというのです。
 その正行とは次の五種の行です。
 ①読誦―浄土三部経を読誦すること。
 ②観察―阿弥陀仏の浄土の有様や仏・菩薩のおすがたを心に念ずること
 ③礼拝―阿弥陀仏のみを礼拝すること
 ④称名―阿弥陀仏の名号のみを称えること
 ⑤讃嘆供養―ただ阿弥陀仏のみのお徳を讃嘆し、阿弥陀仏のみを供養すること

この五正行は阿弥陀仏の浄土に往生するための純粋な行であり、正しい行であるという意味で、正行と名づけられているのです。
 一方、雑行について法然上人は、五正行に対比して五種の雑行として説明されています。
浄土三経以外の経典を読誦して往生を願うのが読誦雑行、聖道門の教えによって、仏や浄土を心に念じて、
阿弥陀仏の浄土に往生を願うのが観察雑行、阿弥陀仏以外の仏・菩薩を礼拝して往生を願うのを礼拝雑行などと述べられています。
法然上人の時代には、往生のために『法華経』を読み、『阿弥陀経』も『般若心経』も読むことが普通に行われていたようです。
また往生のためには阿弥陀仏も、弥勒菩薩も、地蔵菩薩も、その他の仏・菩薩も礼拝するということがごく普通に行われていたようです。
雑行というのは不純な行という意味です。阿弥陀仏と弥勒菩薩をならべて礼拝する人の中には、
極楽浄土がだめなら兜率天へ往生を願うという人もあったということです。
また『法華経や『般若心経』と『阿弥陀経』をならべて読誦して浄土往生を願うのは、
この世でさとりを開こうとする『法華経』や『般若心経』などの聖道門の教えと、浄土往生を説く『阿弥陀経』の教えを混同していることです。
法然上人が雑行を捨てて正行に帰することを勧められたのには、信仰は純粋でなければならないということと共に、
それまでの浄土教のあり方を厳しく批判し、正される意味がこめられているようです。

助業を傍(かたわ)らにして正定業を専(もっぱ)らにすべし

 ところで善導大師は五正行をさらに正定業と助業との二種に分けられました。この教えを法然上人は受けつがれました。
 正定業とは―称名
 助業とは―読誦・観察・礼拝・讃嘆供養

 正定業とは、称名念仏の一行をいいます。
助業とは
、五正行の中で称名を除く読誦・観察・礼拝・讃嘆供養の四つの行をいいます。
 正定業というのは阿弥陀仏が一切衆生を平等に往生させるために本願によって選定された行という意味があります。
念仏するものを必ず往生させたいという阿弥陀仏の願いによって、仏が定められた行が正定業であるという意味が一つあります。
また、阿弥陀仏の本願を信じた人には、称名念仏は私たちの浄土往生を決定する行為でもあります。
称名念仏のみが正定業であるということは、浄土往生の因行は称名念仏以外には何もないということでもあります。
助業は決して往生の因ではありません。称名念仏一つで往生を得るというのが法然上人の教えです。

三選の文  


 これまでの第一章、第二章の意を『選択集』の終わりに次のようにまとめられています。
    それすみやかに生死を離れんとおもはば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしおきて選びて浄土門に入るべし。
    浄土門に入らんとおもはば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて選びて正行に帰すべし。
    正行を修せんとおもはば、正助二業のなかに、はほ助業を傍らにして選びて正定をもつばらにすべし。
    正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、かならず生ずることを得。
    仏の本願によるがゆゑなり。

とあります。この文には、聖道門と浄土門の中から浄土門を選びとれ、浄土門の中の正行と雑行のうち正定業を選びとれ、
正定業と助業のうち正定業である称名念仏を選びとれと、選ぶという言葉が三度繰り返されています。
それで古来この文は「三選の文」と呼ばれています。そして称名念仏こそ必ず往生を得る。
それは仏の本願に依るからであるということが法然上人の結論でした。
これを象徴的に示されているのが『選択集』冒頭の「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」の文です。
往生のための行は、ただ念仏一つであるという意味です。その理由を第三章(本願章)に説かれています。

助業とは

 称名が往生を決定する唯一の行、正定業なら、助業はどんな意味をもつのでしょうか。
助業は、称名すなわち念仏生活を続けていく上で、念仏生活に付随して、これを豊かにすると行為です。
そこで、助業に二つの意味があると見るべきでしょう。
第一には、本願の念仏には、自然に浄土三部経を読誦するとか阿弥陀仏を礼拝するとか、
その他の助業が随伴すると考えられます。この場合、助業とは随伴する行為という意味になります。
したがって正定業を助けるという意味ではありません。
第二には、念仏相続し念仏生活を続けていく上で、助業が仏法を味わう助けともなり、
また、念仏の教えをひろめる上で助けにもなると考えられます。
その意味で助業とは、称名正定業を助ける行為の意味となります。
この二つの意味があいまって念仏生活を豊かにするものが助業です。

念仏は本願の行


『選択集』は、冒頭に「南無阿弥陀仏 往生の業には、念仏を先となす」
と掲げて往生のための行はただ念仏一つであると示されています。
(親鸞聖人の伝持本は「念仏を本となす」となっていました。)
 なぜ念仏一つで浄土往生を遂げることができるのでしょうか。
このことを詳しく説かれたのが第三章(本願章)です。
この章は初めに
    弥陀如来、余行をもって往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文
と示し、第十八の念仏往生の願について、諸仏の浄土のなかには、あるいは布施をもって往生の行とする浄土があり、
あるいは持戒をもって往生の行とする浄土があり、あるいは忍辱をもって往生の行とする浄土があり、
あるいは精進をもって往生の行とする浄土があり、あるいは禅定をもって往生の行とする浄土があり、
あるいは智慧をもって往生の行とする浄土などがある。
しかし、阿弥陀仏は、布施、持戒その他の行を選び捨てて、専(もっぱ)ら名号を称えることを選びとって往生の行と定められたのです。
それで念仏が本願の行であるといえるのです、と示されています。

念仏を往生の本願とされた理由


 念仏以外のもろもろの行、すなわち諸行を選び捨て、念仏を選び取って往生の本願とされたのはなぜでしょうか。
このことについて法然上人は、
①勝劣(しょうれつ)の義、
②難易(なんい)の義

この二つの面から推測されています。
 勝劣の義とは、念仏は勝れた功徳、価値をもっており、諸行は劣っているというのです。
その理由は、称えられている名号に万徳がおさまっているからです。というのは、阿弥陀仏のさとりの内面的な功徳も、
外に現れて衆生をお救いくださる外面的なはたらきも、みなのこりなく阿弥陀仏の名号の中におさめられています。
だから阿弥陀仏の名号の功徳が最も勝れているのです。諸行は一部分の功徳をもっているにすぎず、したがって劣っているのです。
諸行には一部分の功徳しかないのに比べて、名号には全体的な功徳があるのです。
阿弥陀仏の全体の功徳をおさめた名号を称える念仏が、諸行に比べてはるかに勝れているのだ、と法然上人は考えられました。
 次に難易の義とは、念仏はやさしいが、諸行は難しいということです。念仏は男であれ女であれ、
老若を問わず、僧俗をきらわず、何時でも、何処でも、誰でも称えることができる、だから易しいのです。
したがってすべての人に通じて行える行なのです。諸行は難しいからすべての人に通じません。
阿弥陀如来は一切衆生を平等に浄土に往生させたいために、難しい諸行を捨てて、易しい念仏を本願とされたに違ありません。
 阿弥陀如来が諸行を本願とされたなら、往生できる人はごくわずかで、往生できない人がたいへん多くなるでしょう。
阿弥陀如来は平等の慈悲の心から、広く一切衆生を往生させるために諸行を本願とせず、ただ称名念仏一行を本願とされたのでしょう。
法然上人はこのように確信されたのです。

仏教の見方の逆転

 念仏に勝易の二徳があるとすると法然上人の教えは、仏教の見方を逆転させるものでした。
それまでの浄土教は、戒律を守って、難しい修行をし、諸行によって往生を願う教えでした。
ただ、難しい修行に堪えられない人のために、やむなく易しい称名念仏が勧められたのです。
この立場では、難行こそ勝れた行であり、易しい称名念仏の行は劣った行であると考えられていたのです。
このような従来の浄土教の考え方を逆転して、易行こそ勝れた行であるとされたのが法然上人でした。
 従来の仏教の見方を逆転させたのは、上人の阿弥陀仏の本願への開眼でした。
阿弥陀仏の本願は、広く一切衆生を平等に救いたいということです。この立場から従来の仏教のあり方を見ると、
それまで勝れていると考えられていた厳しい修行は、特定のすぐれた人しか救うことのできない行でした。
勝れた人しか救うことのできない行は決して勝れた行とはいえません。
真に勝れた行は、劣った人も勝れた人もさとりに至らせる行です。これこそ本当に勝れた行といえるのです。
阿弥陀仏が選び取られた称名念仏は、劣った人をも勝れた人をもさとりに至らせる行です。
これこそ勝れた徳のある、しかも易しい行であると上人は考えられ、従来の教えを逆転されたのです。
 易行の念仏には、一切衆生を平等に救う阿弥陀仏のはたらきのすべてがこめられているのです。
これこそ広く一切衆生が時代をこえて平等に救われる教えであり、真実の教えであると上人は確信されたのです。
 鎌倉の二位の禅尼ともいわれた北条政子に宛てた上人の手紙には、
     念仏を信じない人は、熊谷直実や津戸三郎は無智の者だから、諸行をさせず、
     念仏ばかりを法然は勧めたのであるというけれども、それはとんでもない間違いです。
     その理由は、念仏の行は、本来有智無智をえらびません。仏の本願は、広く一切衆生のためのものです。
     無智の者のために念仏を願として、有智の者のために諸行を願とされたことはありません。
     十方世界の衆生をすべて救う本願ですから、有智無智、善人悪人、持戒破壊、貴賎男女を分けへだてせず、
     釈尊在世の衆生も、仏滅後の衆生も、末法万年後の法蔵の時の衆生も、ただ念仏一行こそ現当の祈りとなるのです。

と示されています。
 念仏が易行であるということと、勝れた徳があるということとは別々のことではなく、
一切衆生を平等に救いたいという本願念仏にこめられている二側面なのです。
一切衆生を平等に救うための易行は、単に易しいという意味をこえて、一切衆生を平等に救いことのできる、
唯一の普遍の行という意味がこめられているのです。

平等の救い


 易行ということは、衆生の力をからず、如来の一方的な救いということでもあります。
それですべての人が救われる行という意味を持つわけです。
このことを『念仏往生要義抄』では具体的に数カ所の問答によって示されています。

① 一声の称名も十声の称名も功徳に勝劣はありません。
一声の念仏で命終わる人も、十声の念仏で命終わる人も共に往生できるからです。

② 聖人と呼ばれる出家修行の人の念仏も在家の人の念仏もまったく功徳に勝劣はありません。
このことに疑問を持つ人は、妻帯もせず戒律をまもって酒肉五辛なども口にしない出家修行の人の念仏は尊く、
妻をもち、酒肉五辛など不浄を口にして申す在家の人の念仏は劣っているにきまっている、
だから功徳が同じであるはずがないと思うのでしょう。このように思う人は本願にいわれを知らない人です。
出家修行の人とはいえ、口に経を読み、身に仏を礼拝していても、心には思ってはならない妄念が一時も止まることはないものです。
このような身でどうして生死を離れることができるでしょうか。
ですから阿弥陀仏が五劫の間思惟して建てられた本願は、善人悪人、持戒破壊、在家出家、有智無智をわけへだてすることなく、
平等の大悲をおこして仏になられたのです。他力の心で念仏申せば、ただちに救いにあずかるのです。戒律を守り、
酒肉をも口にしない高貴な出家修行者も、自力の心で念仏申している間は救われることはありません。
善導大師も「自力の人は千人中一人も往生する人はない」と述べられています。
阿弥陀仏本願は、清浄な心になれども、不浄な身を浄めよとも申されません。
ただ一筋に念仏するものをお迎えくださると信じて念仏すれば必ず救われるのです。

③ 心の澄む時の念仏も、心の乱れている時の念仏も功徳に勝劣はありません。
このことに疑問を持つ人は、心の澄む時の念仏は浄土や弥陀の本願だけを思い続けて、
他のことを思わないのだから清浄な念仏ですが、心の乱れている時は、口に念仏し、手に念珠を持っていても、心が乱れています。
そんなときの念仏は不浄な念仏ですから、功徳は同じではないと思うのでしょう。
このように考える人は、弥陀の本願を知らない人です。
阿弥陀仏は悪業の衆生を救うために、生死の大海に弘誓の船を浮かべられるのです。
たとえば、船に重い石、軽い荷物を一緒に積んで向こう岸へ渡すようなもので、これは石の力ではなく船の力です。
これを他力というのです。

 その他に、平生の念仏も臨終の念仏も勝劣がないこと、
智者の念仏も愚者の念仏も功徳に違いがないことと等も説かれています。
他力念仏は衆生の身のよしあしを問題とせず、ただ他力をたのみにするので、一切衆生が平等に救われるのです。
その念仏を易行ともいわれるのです。

念仏の絶対的価値

 本願章で念仏に勝易の二徳があると示されたことを受けて、『選択集』第五章(利益章)では、
一声一声の念仏に無上の功徳大利益があると説かれています。
    すでに一念をもつて、一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし(中略)また千念をもつて千無上となす
とあるのがそれです。一念とは一声の称名、十念とは十声の称名を意味します。
本願念仏は一切衆生の上にはたらいているすがたです。仏のはたらきの全体が一声一声の念仏の声となって現れているのです。
ですから一声の称名に無上絶対の功徳価値があるといえるのです。

信心の念仏

 法然上人の教えは「選択本願念仏」についての教えです。
「南無阿弥陀仏 往生の業には、念仏を先(本)となす」といわれていたように念仏によって救われる教えです。
法然上人は善導大師の教えによって、第十八願は念仏するものを往生させたいという本願であると考えられました。
ですから本願を信じている人は念仏申す人なのです。
上人が念仏往生といわれる念仏には、本願を信じる心がこめられているということです。
この信心を明らかにされているのが第八章(三心章)です。三心とは至誠心、深心、回向発願心の三心です。
至誠心とは真実心、深心とは深く信じる心、回向発願心とは浄土往生を願う心です。
三心とはいっても、それは真実心をもって深く本願を信じ浄土に往生したいという信心のことです。
三心章の初めに、「念仏の行者がかならず三心を具足すべき文」と掲げられています。
念仏の行者にはかならず三心、すなわち信心がそなわっていなければならないという意味です。
先にも示しましたように、上人は他力の念仏をしばしば船と石にたとえられています。
「大きな石を船に乗せれば、やがて向こう岸に着くようなものです。これは石の力ではなく、船の力によるのです。
そのように他力念仏は、われわれの力ではなく阿弥陀仏の力によるのです。」などと説かれています。
 さらに言えば、本願念仏とは、称えている一声一声の名号に、仏がわれわれを往生させてくださるはたらきの全体があることを信じ、
念仏するものを救うと誓われた仏願に随順することなのです。
本願を信じて称える時、本願の名号がわれわれの往生の業因となるのです。信じなければ往生の業因とはならないのです。
往生できるかできないかは、信じるか、疑うかです。そのことを上人は次のように表されています。
    まさに知るべし、生死の家には疑いをもつて所止となし、涅槃の城(みやこ)には信をもつて能入となす
 生死の家とは迷いの世界、涅槃の城とはさとりの世界のことです。本願を信じるか、本願を疑うかによって、
往生できるかが決定することを明らかにされているので、古来「信疑決判」の文と呼ばれています。
 法然上人の念仏往生の教えは、信もなくただ念仏さえ申せば往生できるということではなく、
阿弥陀如来の本願を信じて称える念仏なのです。親鸞聖人はこの信疑決判の意を継承されて、信心が大切である、
信心こそ往生の生因であることを明らかにされたのです。

                                                         黒田覚忍先生
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