ごえん 

                
~結ぶ絆から、広がるご縁へ

①「ごえん」


人と人を結びつける
       
               
不思議なめぐりあわせです。
 

 ~不思議~

 私たちは、さまざまな縁(原因)がはたらいています。そして、そのことを、知り尽くすことができません。今、ここで起きている事柄は、数え切れない無限の原因が積み重なった結果です。私たち人間の浅はかな考え方では、とうてい、理解し尽くすことができません。

 一方で、因果(いんが)関係でものを見ることは、私たち人間に特徴的な思考方法でもあります。しかし、私たちには、本当の因果関係を正しく見極めることができず、自分の都合で因果関係を見てしまいます。これは誤った認識であり、それによって誤った行為が生み出され、悲しみや苦しみの要因ともなります。

 縁起を見ぬくことができず、自己中心的な考えで、結果に対して誤った原因を見てしまう私たちは、仏さまに出あい、その智慧をともしびとしなければ、私自身をきちんと見つめることさえできません。

 仏さまが示された「縁起」とは、物事の正しい因果のことです。この教えをよりどころとして、思い込みや自己中心的な因果関係を見てしまわないよう、常に注意しなければなりません。

 あなたと私も、そして仏さまと私も、人間のはからいでは知り尽くせない多くのご縁でつながって、不思議なめぐりあわせがあって、ここに出あっているのです。


②「ごえん」


わたしたちが自覚する以前から、


つながっています。


 ~光明のはたらき~

 「袖振り合うも多生の縁」という言葉があります。「多生」を「多少」と書き間違える人もいますが、「多生」でなければ、この言葉の正しい意味にはなりません。往来で行き交う人の袖先が、軽く接するようなささやかな関係であっても、何度も生まれ変わる中で生じた貴重な縁であることを意味しています。
 しかし、長い時間の中で育まれたご縁であることを意識することは、なかなか難しいことです。直接的な原因について思いをめぐらすことはできても遠い過去からの原因を自覚し続けることは本当に困難です。
 親鸞聖人は、『教行信証』(親鸞聖人の主著)の「総序」で、

  ああ、弘誓(ぐせい)の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫(おくこう)にも獲(え)がたし。
  たまたま行信を獲(え)ば、
遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ


とおっしゃっています。阿弥陀さまからの願いである大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることは難しい。思いがけず、真実の行と信を得たなら、遠い過去から、阿弥陀さまの光が、育み続けてくれたご縁を感謝し慶ぶべきであると、親鸞聖人はお示しくださっています。
 私たちは、心配し続けてくれている人、願い続けてくれている人がいても、当たり前のようにそのことに気づかなかったり、ついつい忘れてしまったりしたときに、やっと、その大切さに気づくということも少なくありません。
 阿弥陀さまの光明は、私たちの気づかない遠い過去から、すべての人々を照らし続けています。そのことが、貴重なご縁となって、今、救に出あっているのです。


③「ごえん」


わたちが認識している以上に、


遠くまで広がっています。

 
 ~ご縁の広がり~

 質問です。名前しかわからない、全く見も知らぬ遠くの人へ手紙を届けなくてはなりません。何人を仲介すれば、目的の人に、その手紙は届くでしょうか?
 これは、アメリカで1960年代に実際に行われた実験です。1600キロ離れた土地に住むビジネスマンに、自分より関係の深そうな方に手紙を渡すという方法で、人づてに手紙を送ろうとします。すると、平均して、たったの6人を介するだけで目的の人物に届くのです。これはアメリカ国内での実験でしたが、2002年には、世界規模で同様の実験を行いました。すると、やはり同じく6人で届いたそうです。
 私たちは、広い世界の中で、ばらばらに生きているように思いがちです。遠くにいる人であれば、全く無関係に生きているように感じてしまいます。しかし、誰もが、たった6人を通じてつながっていける世界、「スモールワールド」に生きているということをこれらの実験は証明されたのです。インターネットが急速に発達している現代では、世界は、さらに小さなものになっていくことでしょう。
 しかし、私たち人間は、私と外の世界を切り分けて認識する習慣を持つため、つながりを断って、世界を認識してしまいがちです。それによって、自己中心的な視点に縛られ、自己へのとらわれから離れられなくなり、つながっていても、また、つながる可能性があっても、そのことを自覚することができないでいます。個別に独立した存在として切り離された関係をつくり、お互いに、ねたみ、いかり、非難の心で見てしまうのが、私たちのありまなのであり、疎外される人々を生み出す私たちの社会のありのままの姿です。
 遠い、近いという感情は、私たちの心がつくり出すものです。自他を隔てることのない仏さまの智慧を鏡とするとき、自己のとらわれから離れられない私たちに、分別するあり方を省(かえり)みて、互いにつながりあっていける可能性が開かれてくることでしょう。


④「ごえん」


過去から現在、現在から未来へと


つながっていきます。


 ~受け継がれていくご縁~

 吐く息が白くなるような寒い冬の日、暖かなお風呂に入ると、「あ~ありがたいなあ」と思わず声が漏れることがあります。「ありがたい(有り難い)」とは、「有ることが難しい」つまり極めてまれなことに感謝をする言葉です。もちろん、お風呂に入ったことだけではありません。仕事や恋愛など日常生活の中で直面するさまざまな困難の中で思わぬ支えに出あったとき、口に出さなくても私たちはありがたさを心から実感することがあります。
 さて、お釈迦さまから始まった仏教の教えは、約2500年の時を経て、現代にまで受け継がれてきました。しかし、その歴史は決して平坦なものではありませんでした。なかでもぶっきょうがこっかにじゅようされた中国・日本などの東アジアでは、いくたびかの深刻な弾圧や迫害によって、その教えが途絶えそうになったことが多くの歴史書に記されています。そうした困難の中で仏法を何とか伝えようとしてきた人々がいたからこそ、私たちは今、その教えに出あうことが出来ているのです。
 親鸞聖人は法然聖人など自ら導いてきた人々の教えを通して阿弥陀さまの救に出あえたことをよろこび、ご著作の最後に、次の言葉を引用されています。

 前(まえ)に生まれんものは後(あと)のものを導き、後(あと)に生まれんものは前(まえ)のものあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。 
(『教行信証』化巻、『現代語訳版』)

ここには、み教えを伝えてくれた先人への感謝と共に、自らも途切れることなく人々に伝えていこうとする親鸞聖人の決意をうかがうことができます。過去から現代へと多くの困難の中でみ教えを伝えてきた方々の「有り難い」ご縁の積み重ねによって、今、私たちが阿弥陀さまの教えに出あうことが出来ているのです。私たちの手によって、未来へとその教えをつなげていきたいものです。


⑤「ごえん」


誰もが


つながっていけることです。


 ~あらゆる世界に生きるものへ~

毎年お正月になると、初詣の参拝者で多くの神社や仏閣はにぎわいます。中でも、若者たちに人気なのが、「今年こそはすてきな人と出あいたい」と、「良縁成就」のお守りを求めて長蛇の列ができる風景は、この時期の風物詩といえるでしょう。このように、私たちが求める「ご縁」は、「悪い縁」をとりのぞき、「よい縁がほしい」「自分の思い通りの異性が見つかればよい」という思いが反映された、いささか都合の良いものであることが多いようです。

 しかし、私と仏さまのあいだにある「ご縁」は、こうした私たちが求める「縁結び」とは、全く違うものです。曇鸞大師(どんらんだいし)は、慈悲(じひ)について述べる中で、阿弥陀さまの慈悲を「無縁、これ大悲なり」(『往生論註』上巻、『注釈版聖典7祖扁』62頁)と示しておられます。「無縁」とは、仏教では「つながりがない」という意味ではなく、「特定の対象(縁)を選ぶのではない」ことを意味します。つまり、阿弥陀さまから結ばれた私との「ご縁」は、どのようなものに対して向けられる大悲(私たちを慈しむ心)のはたらきそのものなのです。このことが、『仏説無量寿経』には「十方衆生を救う」と誓われています。「十方衆生」とは、あらゆる世界のいのちあるものという意味です。
 阿弥陀さまの普遍の救に出あうとき、自分中心に生きていた私が、仏さまとつながっている世界、仏さまの慈しみに包まれている世界の中にあると、気づかされていくのです。縁のよしあしを気にして思い悩む私たちに対して、阿弥陀さまの方からすでに、すべてのものに対する「ご縁」が結ばれています。この仏縁を通して、私たちが、互いに阿弥陀さまの大悲に等しく包まれているもの同士であったことが知らされていくのです。


⑥「ごえん」


わたしとあなたのことです。


 ~いのちを共にする~
  
 『仏説阿弥陀経』の中に、極楽浄土にいる鳥として「共命(ぐみょう)の鳥」の名が見えます。「共命の鳥」とは、胴体は一つなのに、頭が二つあるので、「共命」といいますが、この共命の鳥については、次のようなエピソードがあります。
 鳥は木の実を餌としていますが、ある共命の鳥は、一方の頭の方だけが、いつもおいしい木の実を先に食べ、もう一方の頭の方は、いつも残り物の木の実を食べていました。いつも残りもの木の実ばかりになっている方が、そのことを不満に思っていたために、ある時、毒の木の実を見つけたとき、「おいしそうな木の実がある」と言いましたこう言えば、必ずもう一方の方が、横取りして、毒の入った実を食べ、苦しむだろうと思ったのです。予想どおり、さっさと横取りして、毒の実を食べ、苦しみ始めました。「やった。ざまあ見ろ」と喜んでいたところが、胴体はつながっているので、もう一方の方にも毒が回って苦しんだという話です。
 私たちは、この鳥を「愚かだ」と言えるでしょうか。私と他人とのつながりを忘れ、「自分が」、「自分が」と我を張っています。私と他人とのつながりを忘れて、自分ばかりを主張するから、互いにぶつかり合うことになります。それを、仏教の言葉で「我他彼此(がたぴし)」というのです。
 自分のことだけ主張すれば「ガタピシ」と不快な音を立てます。かといって、自己中心的なあり方から離れることが簡単にできるわけではありません。自己主張してガタピシと音を立てるのが私たちのありのままの姿であり、互いに主張し、話し合い、論争し、そうやってつくられていくのが私たちの社会です。
 しかし、「ご縁」という見方があれば、共命の鳥のように、いのちを共にしているものであると知らされて、ただぶつかり合うだけの愚かさを知り、互いの意見を尊重し、許し合い支え合う「共に」の社会をつくっていく思いが生まれてくるのではないでしょうか。


⑦「ごえん」


わたしと仏さまのことです。


 ~切れることのないご縁~

 毎年お正月になると、年賀状を送ります。しかし、せっかく送った年賀状が、「宛先不明」で返ってくることがあります。どこかへ引っ越しされたのか、お亡くなりになったのか…。原因はわかりませんが、返ってきた年賀状を見て、さびしい気持ちになった経験を持つ方も、多いのではないでしょうか。大切なご縁であっても、ふとしたことで失われてしますが、私たちが生きている人間世界の関係です。
 それは、親子や夫婦といったかけがえのない大切な縁であっても、変わることはありません。なぜなら、「死別」を免れることはできないからです。『仏説無量寿経』には、独で生まれ、独で死んでいくとあります。人間は、生まれるときも死ぬときも独であるというこの言葉には、生死のもたらす別離の悲しみが示されています。
 親鸞聖人は「人間の八つの苦しみのなかで、愛別離苦が、もっとも痛切なものである」と仰ったと『口伝鈔(くでんしょう)』に伝えられています。八つの苦しみの中には、自分が老いること、死んでいくことの苦しみもふくまれますが、そうした苦しみよりも、慈しみ合っているもの同士が別れていくことほど、悲しく切ないものはないと仰っているのです。この言葉からも、大切な縁が切れてしまうことの痛みの大きさが、あらためて実感されます。

 そのような私たちに対して、阿弥陀さまの救いは、決して断ち切られることができない縁として届いています。はるか昔から、そして今も、未来も、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(救い取って決して捨てない)として、すべてのいのちあるもののもとに、阿弥陀さまの光は届いています。この誰もがつながっていける、途切れることのない阿弥陀さまからのご縁をいただいていくことを、「信心」というのです。そして、信心をいただいた私たちは、お浄土に生まれ、仏となって、ご縁のあった人々との間に、永遠のつながりを結ぶことができるのです。
※「八つの苦しみ」は「八苦」といい、生・老・病・死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦(怨み憎むものと合う苦しみ)、求不得苦(求めて得られない苦しみ)、五蘊盛苦(私たちの存在そのものの苦しみ)の四つを加えたものです。


⑧「ごえん」


わたしのいのちを支えているものです。


 ~食事のことばから~

 私たちは食前に何も意識せずに「いただきます」という言葉を発します。しかし、近ごろは「いただきます」、「ごちそうさま」の一声さえ出なくなっていると嘆(なげ)く声も聞かれます。
 浄土真宗本願寺派は、2009年11月に新しい「食事のことば」を定めました。

【食前のことば】
●多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
【食後のことば】
●尊いおめぐみによりおいしくいただき、ますます御恩報謝(ごおんほうしゃ)につとめます。
おかげで、ごちそうさまでした。


 この【食前のことば】の「多くのいのち」という表現には、多くの動植物のいのちをいただかなければ生きていけない私たちのあり方への「慚愧(ざんぎ)」の思いが込められています。また「みなさまのおかげ」という表現には、食事に携わる人々のご苦労に対する「感謝」の思いが込められています。
 【食前のことば】は、食事が空腹を満たすだけではなく、食事というめぐみを通して、私たちのいのちを支えているものへの「ご縁」を知らされていただく機縁となるでしょう。
 このように多くのいのちによってめぐまれた私の人生ですから、ご報謝させていただく決意が生まれます。それが【食後のことば】です。

 もちろん、食事だけではありません。普段、私たちは何気なく生活していますが、その一つひとつを「ご縁」というまなざしから見れば、そこに多くの「おかげ」「ご恩」があり、私のいのちが支えられていることが見えてきます。
 「ご縁」を見る習慣が身につくと、何も思わずにご飯を食べることができなくなるかもしれませんね。


⑨「ごえん」


わたしがここに


存在していることそのものです。


 ~無常という真理~

 砂場で、幼い子どもが、時の経つのも忘れて、砂山をつくって遊んでいるのを見かけることがあります。
 大地、砂つぶ、子どもの作業、これら一つひとつが原因(縁)となり、砂山ができあがります。このなかのひとつの原因が欠けても、砂山はできません。そして、やがて風が吹き、雨が降り、時間が経過して、砂山は崩れていきます。いろいろな原因(縁)によって、形を変えていくのです。
 いくつもの縁によって生まれ、また縁によって変化し続け、やがて元の形が無くなっていくありようを「無常(むじょう)」といいます。このように、「縁」と「無常」とは一対のことばなのです。
 多くの縁によって、この世に生を受けた幼子も、砂山が崩れて元の砂つぶに戻っていくように、やがては臨終の時を迎えなければなりません。だからこそ、急ぎ、仏とならせていただく仏縁をいただかなければならないのです。

 お釈迦さまは、「縁起」こそが真理であると説かれました。この世に生まれてきたものは誰でも、「縁起」と「無常」の世界を免れることができません。なぜなら、私たちの存在そのものが、「縁」でできてた「無常」なものだからです。親鸞聖人は「家宅(かたく)無常の世界」と、「無常」について表現されました。私たちが生きるこの世は、燃えさかる家のように、たちまちに移り変わる世界なのです。やがては、この世では縁が尽き、終わりを迎えなければならないのが私たちのありさまです。
 そんな無常な私たちだからこそ、いつでも、どこでも、はたらいてくださっている阿弥陀さまの慈悲によって、仏とならせていただく。その教えに今、あい、存在の根底から阿弥陀さまの慈悲の中で生きていることが、何よりも大切な救いとなるのです。


⑩「ごえん」


わたしはあらゆるものにつながっています。


 ~かけがえのない私~

 「僕は誰からも必要とされていない。私なんていなくてもいいんじゃないか‥‥‥」
 学校や職場で、こうした思いを持つ方は、決して少なくないのではないでしょうか。最近では厳しい就職活動の中で自分の存在そのものが否定されたように感じ、自らのいのちを絶つ学生がいることも報道されています。「あなたの代わりはいくらでもいる」などのように、取り換え可能な人間と言われることほど、「生きる意味」を失う体験はありません。まさに私たちは、「誰かにとって大切な存在であること」によってはじめて、「自分の大切さ」が実感できるのです。
 
 仏教には、「インドラの網」という有名なたとえがあります。インドラとは古代インドの神さまであり仏教では帝釈天という名で知られています。その宮殿を飾っている結び目の一つひとつには宝珠(ほうしゅ)が結(ゆ)わえられており、それらがちょうど合わせた鏡のように互いに互いを映し合い、どれか一つの宝珠をとりあげれば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。

 自分の顔は、鏡に映してみることができるように、私自身の姿についても、自分で気付くより、他者の存在を通して知らされるということばがしばしばあります。同様に、他者にとってもまた、他ならない私の存在が大きな意味をもっています。このように、あらゆる存在に関わり合いながら形づくられている究極的な縁起の世界こそが、私たちが生きているこの世界なのです。今、生きているこの私こそが、実は「すべての存在にとってなくてはならない、大切な私」であることを、仏教は伝えています。


もっと知りたいご縁のこと


 「結ぶ絆から、広がるご縁へ」

浄土真宗本願寺派は、「御同朋の社会をめざす運動」の総合テーマに、「結ぶ絆から、広がるご縁へ」という言葉を掲げております。「絆」とは、もとは「馬などをつないでおく綱」の意味で、人が結ぶつながりのことです。この人と人との結びつきは、確かに大切でかけがえのないものですが、一方で、人間の思いや好意によるつながりは、どこまでも不確かなものでしかありません。このように人間の分別的な知の世界に「つながり」を限定させるなら、私たちの社会が抱えている深い闇、大きな悲嘆(ひたん)を人間の根源的なところから克服していく原理としては、不十分でありましょう。

一方、「ご縁」とは、人間が作為的に作り出すつながりを意味する言葉ではありません。それは、すべての物事が互いに関わり合って存在していること、あらゆる存在が無限の過去から関連し合ながら現在にいたっていることを示しています。ご縁とは、生きる力を再生させる原理となり、利己的なあり方から離れ難い自己への内省を喚起し、根源的な無力さを実感させながら、それだからこそ他者とのつながりあっていくあり方を開いていきます。
 総合テーマに「結ぶ絆から、広がるご縁へ」を掲げるのは、あらゆるものが縁起し合っているという視点に立って、この運動を進めたいという願いが込められているからです。
 宗門は、「阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会」をめざしています。この宗門の根本的な理念を実現していくために、「御同朋の社会をめざす運動」を展開していきます。


「ご縁」と「縁起」


 仏教の根底を成す思想

 「ご縁」は、お釈迦さまが説いた大切な教えである「縁起」に由来する言葉です。
 お釈迦さまはさとりを開かれ、その後45年間にわたりさまざまな教えを説かれましたが、その教えの根本が「縁起」であるといわれています。お釈迦さまは、人が生まれ、老い、やがて死にいたるという苦しみの原因を探っていき、その原因が人間相互の根本的な欲望や愚かさであることを見いだしました。その上でその愚かさが生み出す苦悩を、「智」によって解放していく道を示されたのです。

お釈迦さまのさとりは、苦しみの原因を、時間をさかのぼって観察することで得られた境地であり、もともと「縁起」は、時間的な経過の中での原因と結果を意味していました。しかし、後の時代になると、あらゆる存在は、他のものとの関係の中で存在しているという、相互の依存関係を意味するようにもなりました。つまり、「縁起」とは、私たちには見極めることが困難なものですが、宇宙のあらゆるものは時間的にも、相互の関係としても、結びつきあって存在しているのであり、バラバラに存在しているようであっても、個別に単独で存在しているものはないという、この世界の真実のあり方を示す思想を表現する言葉になりました。
 ですから、時間的なつながりと、互いの存在が同時的につながり合っているという二つの私たちの存在を規定するとともに、仏教徒として生きる道をあきらかにする奥深い原理が、この短い「縁起」という言葉に集約されているのです。


日本での浸透

とりわけ、日本に仏教が伝来して以来、この「縁起」の「お互いに関連し合う」という考え方が大切にされてきました。そのことが「縁」に「ご」をつけて「ご縁」という表現になり、江戸時代には、浄土真宗の法話などでも、たびたび用いられてきました。その後、「ご縁」は、日本社会に広く浸透し、日常でしばしば用いられる言葉となり、「多くのご縁によって生かされている」という見方が培(つちか)われてきたとみられます。
 親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と述べられるところにも、仏法に出あい、阿弥陀さまのみ教えに導かれる身となったことを、遠い過去からのはかり知れない「ご縁」によって与えられ導かれてきたとよろこばれている姿、すなわち「縁起」の理念のもとに、「ご縁」をこよなくよろこばれているお姿があらわされています。
 
 さらに、親鸞聖人は、阿弥陀さまの救いを「弘誓の強縁」(ぐぜいのごうえん)と讃えられ、「光明名号顕因縁」(こうみょうみょうごうけんいんねん)と、阿弥陀さまのはたらきが、私たちの救いの「因であり縁である」と示されました。私たちの救いのすべてが、他力であるとお示しになったのです。


「業縁」

 「業縁」(ごうえん)という言葉も使われます。「業」とは、行いを意味します。インドでは、お釈迦様の生まれる前から、輪廻思想の中で、善い行いをすれば楽な世界に生じ、悪い行いをすれば苦しみの果があるとする因果応報の考え方があり、宿命論的な意味合いが強く、インドにおける差別的な身分制度の思想的背景になってきました。しかし、お釈迦さまは、物事は一つの原因によって生じるようなものではなく、また、多くの原因によって常に移り変わり、固定的で変わらぬ私自身は無いという「諸行無常」(しょぎょうむじょう)・「諸法無我」(しょほうむが)の教えを説き、「業」に関する宿命論的な見方を否定されました。仏教の縁起の体系はそのお釈迦さまのお心を根拠とするものであり、親鸞聖人もその心を継承していかれました。

 しかしその後、お釈迦さまが否定したにもかかわらず、現実の事態を個人の過去世に責任を負わせる考え方として、「過去からの業によって差別を受けるのはしょうがない」といった諦(あきら)めの論理として、「業」を利用してきた歴史があります。
 さらに、親鸞聖人が『歎異抄(たんにしょう)』で「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と言われたと伝えられるお言葉は、聖人の深い自己凝視(ぎょうし)と、真実のありようが人知(じんち)を越えていることを嘆(たん)じられたものであるにもかかわらず、この言葉をも私たちは差別の現実を諦めさせていく論理として使用してきた歴史的事実を有しています。
 これらの反省にたったうえで、仏教の根本の教えである「諸行無常」・「諸法無我」そして「縁起」といった考え方を改めて問い直すとともに、自己を深く内省(ないせい)し、一人ひとりが抱える課題に真摯(しんし)に向き合っていくことを行動へとつなげたいと思います。


 ご縁の中に生かされているという真実の教えを根底として、自他共に心豊かに生きることのできる社会をめざしていきましょう。



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