『仏説無量寿経』 下巻(悲化段 現代語版)

【三一】釈尊(しゃくそん)は弥勒菩薩(みろくぼさつ)と天人や人々に仰せになった。
 「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧(ちえ)がすぐれていることは、言葉に表し尽くせない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。
 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳(くどく)を身にそなえようとしないのだろうか。


それぞれに努め励(はげ)んで、すすんでこの国に生まれようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の国に往生し、ただちに輪廻(りんね)を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の国は往生しやすいにもかかわらず、いく人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふりすてて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。
 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、このはげしい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立ててるにすぎない。身分の高いもの低いもの、貧しいもの富(と)めるもの、老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂(うれ)え悩むことには変わりなく、あれこれと嘆(なげ)き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
 田かあれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂(うれ)え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みをもつものや借りのある相手などに奪いとられ、たちまちそれらがなくなってしまうとはげしい憂(うれ)いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉ざして気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただ一人この世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂(うれ)いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。
 また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田がほしいと悩み、家がなければ家がほしいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたまひとつが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。そうしてやっとこれらの物がみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂(うれ)いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともいないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決まっているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、たがいに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。また持ち物はたがいに融通(ゆうずう)しあって、むさぼり惜しんではならない。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。争いを起こして怒りの心を生じることがあれば、この世でわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒(いか)りをたくわえ、その憤(いきどお)りがおのずから心の中に刻みつけられて恨(うら)みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生まれて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。
 人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独(ひと)りで生まれて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生まれていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生まれ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生まれるというように、おのおのその行き先が異なっており、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生まれていくのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生まれていくのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり。行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。
 それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生まれたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。
 このような世間の人々は善い行いをしてよい結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生まれ変わることや、人に恵みを施せば福が得られることを信じない。善悪因果(ぜんあくいんが)の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまでも認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起こるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。
 生まれ変わり死に変わりして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を亡くして泣き、兄弟夫婦の互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常(むじょう)の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生まれ変わり死に変わりして、とどまるときがないのである。
 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかりである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲(しきよく)をむさぼることは、まるで飢えた狼(おおかみ)のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生まれて苦しみ、いつまでも生まれ変わり死に変わりし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。
 あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手の思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛(おんない)や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗(せぞく)のことを断ち切ることができない。こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにするものがない。それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡(よわた)りのために苦しんでいる。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。これは世の道理に背き、人の道にも外れた行いである。
 このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。ついにその罪が行き着くところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、突然命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生まれ変わり死に変わりして、何千億劫(なにぜんおくこう)もの長い間、浮かび出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである」 
【三二】続けて釈尊(しゃくそん)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)と天人や人々などに仰せになる。
「わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望にまかせた生活も、またどのような栄華(えいが)も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない。幸いにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の国に生まれたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後(おく)れを取るようなことはあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう」
 弥勒菩薩(みろくぼさつ)はうやうやしくひざまずいて申しあげる。
 「世尊(せそん)の神々(こうごう)しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであります。今、世尊が哀れみの心をもってまことの道をお示しくださいましたのでわたしたちは真実を聞く耳と真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました。世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲(じひ)によって苦悩を離れることができます。
 世尊の教えは、実に深く実に巧であります。その智慧(ちえ)は、明らかにすべての世界、すべての時を見とおして、きわめ尽くさないことはありません。今わたしたちが迷いを離れることができたのは、ひとえに、世尊が前世(ぜんせ)においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげであります。世尊の恩徳(おんどく)はひろく人々をおおい、さとりの徳は高くすぐれ、光明は余すところなく照らし、空の道理をきわめ尽くしておいでになります。さらに、さとりの道を開いて人々を導き入れ、教えのかなめを説き述べ、誤った考えを正し、すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません。世尊は法門の王として、他の聖者(しょうじゃ)がたに超えすぐれてひときわ尊く、ひろくすべての天人や人々の師として、その願いに応じて、みなさとりを得させてくださるのであります。今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました」
【三三】釈尊は弥勒菩薩に仰せになる。
 「そなたのいう通りである、仏を敬愛することは実に大きな功徳となる。仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、いまわたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ、さまざまな疑いを断ち切り、執着を根本から抜き去り、すべての悪の源を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている。教えを取りまとめる仏の智慧はすべての道のかなめであり、教えは筋道を固くたもってはっきりしている。そしてこれを迷いの世界の人々に開き示して、まだ救われていないものを救い、迷いの世界とさとりの世界を正しく明かすのである。
 弥勒よ、知るがよい。そなたは、はかり知れないほどの遠い昔から菩薩として修行をし人々を救おうと願い、今日まで限りない時を経てきた。そしてその間、そなたによって仏堂に入り、さとりを開いたものは数えきれないほど多い。しかしながら、そなたをはじめ、さまざまな世界の天人や人々は、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、みなはるかな昔から迷いの世界に生まれ変わり死に変わりして憂え苦しみ続けてきたのであって、そのありさまを詳しく述べ尽くすことはできない。そして、今もなお迷いの世界にとどまり続けている。このたびそなたたちは仏に出会い、教えを聞き、また無量寿仏のことを聞くことができた。まことに喜ばしく、実に善いことである。わたしもそれをともに喜びたい。
 そなたたちは、今こそ生・老・病・死の苦しみを離れようと思うがよい。この世は醜く汚れに満ちていて、楽しむべきことは何もない。すすんで決断して、身も行いも正しくして、より多くの善い行いをし、身をつつしんで心の汚れを洗いきよめ、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。」
【三四】釈尊(しゃくそん)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)に仰せになる。
 「そなたたちが、この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯(おか)さなければ、それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類をみないことであろう。なぜなら、他の仏がたの国の天人や人々はおのずから善い行いができ、悪を犯(おか)すことがほとんどなく、さとりの世界に導き入れることがたやすいからである。今わたしがこの世界で仏となって、次に述べるような五悪と、五痛(ごつう)と、五焼(ごしょう)に満ちた世の中にいることは、たいへんな苦労なのである。しかしその中で人々を教え導いて、五悪をやめさせ、五痛を遠ざけ、五焼を離れさせ、そしてその悪い心をおさえて、五善をたもたせ、功徳(くどく)を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させたいと思う」
 釈尊(しゃくそん)は続けて仰せになる。
 「それでは、この五悪、五痛、五焼とは何であるか、また、五悪を除いて五善をたもたせ、功徳(くどく)を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させるとはどういうことか、これから説き述べよう」
【三五】釈尊(しゃくそん)が仰せになる。
 「第一の悪とは次のようである。天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯(おか)しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっている。
 善い行いをすることを知らず、五逆(ごぎゃく)十悪の罪を犯(おか)して道にはずれているものは、後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない。天地の神々がその人の犯(おか)した罪を記録していて、決して許さない。それでこの世には、貧しいものや、身分の低いものや、身よりのないものや、心身の不自由なものや、才知の劣(おと)ったものなどさまざまな不幸な人がいるのである。また身分の高いものや、裕福(ゆうふく)なものや、才知(さいち)のすぐれたものなどがいるのは、みな過去世で人を慈(いつく)しみ、親に孝行(こうこう)を尽くすというような善い行いをして徳を積んだことによるのである。
 世に中には法令に定められた牢獄(ろうごく)があるように、少しも恐れないで悪い行いをし、罪を犯(おか)してその刑罰を受ける。それをどれほどのがれたいと思っても、逃れることはできない。この世にも現にこのような苦痛がある。さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生まれ変わることは、この世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。
 このようにして、悪を犯(おか)したものは、おのずから地獄や餓鬼(がき)や畜生(ちくしょう)の世界で、はかりしれない苦しみを受ける。次々とその身を変え姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命(じゅみょう)を受けるのであって、そのこころはおのずから行くべきところに行くのである。そしてたとえひとりで行っても、前世(ぜんせ)に憎(にく)みあったもの同士は同じところに生まれあわせ、かわるがわる報復(ほうふく)しあって尽きることがなく、犯(おか)した罪が消えない限り、互いに離れることができない。こうして地獄や餓鬼(がき)や畜生(ちくしょう)の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとうていいい表すことができない。世の中にはこのような因果(いんが)の道理がある。たとえ善悪の行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその報いを受けなければならない。これを第一の大悪、第一の痛、第一の焼という。その苦しみはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯(おか)さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳(くどく)を得、迷いの世界を離れて浄土に生まれ、さとりを得ることができるであろう。これを第一の大善というのである。」 
【三六】釈尊(しゃくそん)が言葉をお続けになる。
 「第二の悪とは次のようである。世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも、道理をまったくわきまえず、規則にしたがわず、贅沢(ぜいたく)を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを欺(あざむ)き惑(まど)わしあっている。言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞(せじ)をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのである。
 もし上に立つものが愚(おろ)かであり、よく考えずに下のものを用いると、下のものは、思うがままにいろいろな策(さく)を弄(ろう)して悪事をはたらく。国法(こくほう)を守り世情(せじょう)によく通じたものがいても、上に立つものがその地位にふさわしい力量をそなえていないから、そのために欺(あざむ)かれて、忠義(ちゅうぎ)を尽くすものはかえって不遇(ふぐう)な目にあうばかりである。これは道理に反してる。このように下のものが上のものを欺(あざむ)き、子は親を欺(あざむ)き、兄弟・夫婦・知人に至るまで、互いに欺(あざむ)きあっているのである。それは各自が貪(むさぼ)りと怒りと愚(おろ)かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである。そのために家を失い身を滅ぼし、先のことも後のこともよく考えないで、親類縁者まで被害にあって破滅(はめつ)してしまう。
 あるときは、親族や知人、町や村のもの、また素性(すじょう)の知れないものたちが、ともに悪事にたずさわり、互いに利害を争って腹を立て、恨みをいだくこともある。また裕福でありながらも物惜(ものお)しみして人に施し与えようとせず、財産に執着(しゅうちゃく)するばかりで身も心もすり減らしてしまう。こうしていよいよ命が終わるときには、何もあてにできるものがなく、結局、独(ひと)り生まれ来て独り世を去るのであって、何も持っていくことはできない。善も悪も禍も福も、すべては因果(いんが)の道理にしたがうのであり、天人や人間として生まれるものもいれば、地獄や餓鬼(がき)や畜生(ちくしょう)の世界に生まれるものもいる。そうなってからいくら後悔しても、もはやどうにもならない。
 世間の人々は愚(おろ)かで智慧(ちえ)も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道義に背いたことばかりをするのである。他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとする。心がよこしまで正しくないから、いつも人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまである。
 この世には現に法令に定められた牢獄(ろうごく)があるから、罪に応じてその刑罰を受けなければならない。前世においてさとりの徳を信じず、功徳(くどく)を積まずに、この世でまた悪を犯(おか)すなら、天の神がその罪を漏(も)らさず記録しているから、命が終われば悪い世界に落ちなければならないのである。
 このようにして、悪を犯(おか)したものは、おのずから地獄や餓鬼(がき)や畜生(ちくしょう)の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとうていいい表すことができない。これを第二の大悪、第二の痛(つう)、第二の焼(しょう)という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しく、さまざまな善い行いをして悪を犯(おか)さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳(くどく)を得、迷いの世界を離れて浄土に生まれ、さとりを得ることができるであろう。これを第二の大善というのである」
【四〇】続けて釈尊(しゃくそん)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)に仰せになる。
 「今わたしがそなたたちに語ったように、世の人々はこの五悪のために苦しんでいるのであって、その五悪から次々に五痛・五焼の報いが生まれるのである。いろいろな悪ばかりを犯(おか)して功徳(くどく)を積まないなら、みなおのずからさまざまな苦しみの世界に生まれる。あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを世の人々の前にさらすのである。そして命が終われば、その行いに応じて地獄や餓鬼(がき)や畜生(ちくしょう)の世界に沈みはかりしれない苦しみにその身を焼き焦(こ)がして苦しむのである。
 長い時を経てふたたび人間に生まれても、また互いに憎みあって、小さな悪から始まりやがて大きな悪を犯(おか)すようになる。これはすべて、財欲や色欲(しきよく)を貪って人に恵み施すことができないからである。人々は愚(おろ)かな欲望に追い回されて、わがままな考えをいだき、いつまでも煩悩(ぼんのう)に縛られたままで、自分の利益ばかりを考えて他人と争い、悪い行いを反省(はんせい)してすすんで善い行いをしようとはしない。たまたま裕福(ゆうふく)になり反映(はんえい)しても、一時の快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、すすんで善い行いをしようとしないために、その勢いも長続きしないですぐに落ちぶれてしまう。身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほどその激しさを増すのである。
 因果(いんが)の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕らえられて、逃れることができない。ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは今も昔も変わることがない。まことに痛ましい限りではないか」 釈尊(しゃくそん)は弥勒菩薩(みろくぼさつ)に仰せになる。
 「世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力(じんずうりき)によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒(いまし)めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いに世界を離れてさとりを得ることができるであろう」
 さらに釈尊(しゃくそん)は仰せになる。
 「そなたをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒(いまし)めを伝えていくがよい。各自がその戒(いまし)めを守って、聖者(しょうじゃ)を尊び善人を敬(うやま)い、ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲(じひ)の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。そしてさとりの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を断ち、さまざまな悪をその根本からぬき去り、地獄や餓鬼(がき)や畜生(ちくしょう)などのはかりしれない苦悩の世界から離れよ。そなたたちはこの世界でひろく功徳(くどく)を積み、恵みを施し、仏の戒(いまし)めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励(はげ)み、心を静めて智慧(ちえ)をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒(いまし)めをわずか一昼夜でも清らかに保つなら、それは無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の国で百年間善(よ)い行いに励(はげ)むよりもまさっているといえる。なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。またこの世界で昼夜十日間善い行いに励(はげ)んだなら、他のさまざまな仏がたの国で千年間善い行いに励(はげ)むよりも、さらにまさっているといえる。なぜなら他の仏がたの国は、善い行いをするものが多く悪い行いをするものが少なく、功徳(くどく)がおのずからそなわり、悪を犯(おか)すことのない世界だからです。ただこの娑婆(しゃば)世界だけが悪が多くて、功徳(くどく)がおのずからそなわることなどなく、苦労して欲望を満たそうとし、互いに欺(あざむ)きあって身も心も疲れはて、苦を飲み毒を食らって暮らしているようなありさまで、いつもあくせくとして、これまで少しの間も安らいだことがない。 
 わたしは、そなたたち天人や人々を哀れみ、懇切丁寧に教え諭して功徳(くどく)を積ませ、相手に応じた導き方で教えを授けるのであるから、これを信じて修めないものはない。すべてのものは願いのままにさとりを得るのである。
 仏が歩みおかれるところは、国も町も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病(えきびょう)などもおこらず、国は豊になり、民衆は平穏(へいおん)に暮らし、武器を取って争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」
 釈尊(しゃくそん)が仰せになる。
 「わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛(ごつう)を取り除き、五焼(ごしょう)をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。しかしわたしがこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰(おとろ)えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯(おか)して、五痛(ごつう)と五焼の報いをもと通り受けるようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。そのようすを一々詳(いちいちくわ)しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである。」
 釈尊(しゃくそん)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)に仰せになる。
 「そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒(いまし)めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない」
 そこで弥勒菩薩は合掌(がっしょう)してうやうやしくお答えした。
 「世尊(せそん)はたいへん懇切丁寧(こんせつていねい)にお説きくださいました。世に人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。そのために如来は、これらの人々を慈(いつく)しみ哀(あわ)れんで、すべてのものをお救いくださるのです。わたしたちもまた、世尊の丁重(ていちょう)な教えをいただいて、決して背くことはありません」
 
                                        浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語版より
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