親鸞聖人御消息   浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候べし


【注釈版本文】
 訪ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、辺地の往生とてきらはれ候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて、候ふかり。信心ありとも名号をとなへざらんは栓なく候ふ。また、一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。栓ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力を信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地に往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
 この身は、いまは、としきはまりて候へば、
さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

あなかしこ、あなかしこ。
   七月十三日               親鸞
  有阿弥陀仏御返事



【意 訳】 
 お尋ねになりました念仏往生に関しての疑義について、ご返事。
 念仏を申して浄土往生すると信じる人は、浄土のはずれである辺地にしか往生することができない、といって非難されるというのはまったく理解できないことであります。その理由は、阿弥陀如来の本願というのは、仏の名号を称えるものを極楽に迎えいれようとお誓いなさったのであって、それを深く信じて、その名号を称えるのが殊勝なのであるからです。
 信心があるからといっても、名号を称えないのであればその甲斐がありません。またひたすらに名号を称えるといっても、信心が浅ければ浄土に往生するのは困難であります。ですから、念仏して往生できるのだと深く信じて、その上で名号を称えられるならば、浄土への往生は疑いのないことであります。
 要するに、名号を称えても他力の本願を信じないのであるならば、辺地に往生することになるでありましょう。本願他力のはたらきを深く信じる人々が、どうして辺地などへ往生するでありましょうか。このあたりの事情をよくよくい心得になって、お念仏なさってください。


 この私は、いまはすっかり年をとってしまい、きっとあなたに先立って往生するでしょうから、浄土であなたのおいでを必ずかならず待っております。                       謹言
   七月十三日                                親鸞
  有阿弥陀仏へ      ご返事
           

 今回は、「訪ね仰せられ候ふ念仏の不審の事」という「ご消息」を取りあげていただきます。
これは「念仏を称えて浄土に往生すると信じる人は辺地へ往生するのですね」
という有阿弥陀仏の質問に対して、親鸞聖人がお答えになったものです。
有阿弥陀仏については、その人となりは未詳ですが、
おそらく聖道門(しょうどうもん)出身の門弟ではなかろうかと思われます。
それではこの「ご消息」をもとに、念仏による往生についての誤解を正していただきましょう。


▼慈愛にみちた懇切な便り


このご消息は有(ゆう)阿弥陀仏という門弟が、念仏往生についての疑問を親鸞聖人に尋ねたのに対してかかれた回答の手紙であります。有阿弥陀仏については、この手紙の宛名に記されたものが唯一の資料で、その人となりを知ることができません。しかし後に触れますが、○阿弥陀仏、×阿弥陀仏という名前は、天台宗の念仏者、浄土宗の人に多いので、そういう立場にあった人が聖人に帰依したものかも知れません。
 聖人の返事に「念仏を申して浄土に往生すると信じる人は、浄土のはずれである辺地にしか往生することができない、といって非難されるというのはまったく理解できないことであります」と有阿弥陀仏の質問を要約し、それが誤謬(ごびゅう)であることを教示されているのですが、そういう誤った教えを主張するのが有阿弥陀仏自身なのか、あるいはそのような主張をする他の人が、有阿弥陀仏を非難しているのか、はっきりしません。
 返事のなかで、「他の人がなにをいおうと迷うことなく、念仏を申して浄土に往生すると信じるままでよい」とか、また「あなたの考えはまことに結構です」とはいわないで、「このあたりの事情をよくよくお心得になって、お念仏なさってください」と教示されるところからすれば、念仏往生について誤謬をいただいて、真実の念仏者を非難していたのは有阿弥陀仏自身であったのではなかろうか、と推測されないでもありません。
 ただ返事全体から受ける語感がきわめて慈愛にみち、かんでふくめるように懇切なものでありますから、有阿弥陀仏の人柄を聖人はよくご存知だったのではないでしょうか。
 

末文にあります、
    この私は、いまはすっかり年をとってしまい、きっとあなたに先立って往生するでしょうから、
    浄土であなたのおいでをかならず必ず待っております。 


の一節を読んで、有阿弥陀仏は感涙にむせんだことであろうと想います。私は『歎異抄』第九条で、孫であってもいいほどの年齢の唯円房に「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」としみじみと語られた一節と、いまの有阿弥陀仏への一節に、聖人の慈父のような人柄を見て、ふるえるほどの感動を憶えるのです。
 この手紙は、七月十三日の日付だけで、聖人何歳の時のものかわかりません。おそらく最晩年のものではないでしょうか。有阿弥陀仏は聖人よりも年下でしょうが、かれも老齢の身であったと推測できます。


▼誤解の底に聖道門へのあこがれ


 念仏を申して浄土に往生すると信じる人は、辺地に往生するという誤解がどうして起こったのでしょうか。
結局は正信(しょうしん)がないということになるでしょうが、聖人から聞いたり、 お聖教(しょうぎょう)にある経文や法語を自己流に解釈したことによるものでありましょう。
 自力の念仏によって、死後、辺地や懈慢界(けまんがい)とよばれる仮の浄土に生まれることがないよう、口をきわめて本願の信を勧められたのが、聖人でありましたが、そういう教えの一面のみに確執して、「往生の因は信心ひとつできまる。したがって念仏を称えて往生を願うのは自力の称名であって、死後は辺地や懈慢界(けまんがい)にゆくこととなるのだ」と主張して、真の念仏者までも非難することになったのではないでしょうか。
 そのような往生の因は信心ひとつ、その上の念仏は自力であると確執するものにとっては、聖人の『正像末和讃』のうち「誡疑讃」(かいぎさん)などは格好の根拠になったのではないでしょうか。


   不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
    罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり



   仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
    辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり



 この和讃のなか、「善本・徳本をたのむ」とは名号を称することであります。仏智を疑惑して名号を称するから、自力の念仏となって辺地や懈慢界とよばれる仮の浄土に生まれるのであると、本願を疑うことを誡められるものですが、自分勝手に「善本・徳本たのむひと 辺地懈慢にうまる」だけを切りとって、「名号を称するものは辺地にうまれる」と真実の念仏者までも避難するところとなったものでしょう。
 法然上人以来、愚者(ぐしゃ)や悪人の救われていく道として念仏が説かれました。それに対して聖道門(しょうどうもん)の教えは、学問や修業をきわめて仏になる聖者(しょうじゃ)の実践道であります。したがって聖道門のがわからは
「念仏は無能な人のためのものである。その宗の教えは浅く低級である」というさげすんだ批判があったようです。またそのような聖道門の批判を受けて、念仏者の中にも、劣等意識をいだく人たちもあったでありましょう。そういう状況の中で低級とみなされる口称の念仏を排除して、信心さえあればよいのだとする考えが起こったのではないでしょうか。それは観念を重視する聖道門の立場に準じ、「その宗の教えは浅く低級である」という非難から解放されるという意識にもとづくものであったと考えられます。そういう意味で私は、有阿弥陀仏はその名前の付けかたとともに、どうも聖道門出身の門弟ではなかったかと想像するのです。



▼浅い信心、深い信心



 有阿弥陀仏の「念仏を申して浄土に往生すると信じる人は、辺地に往生するのですね」という疑問に、聖人は、「阿弥陀如来の本願というのは、仏の名号を称えるものを極楽に迎え入れようとお誓いなさったのであって、それを深く信じて、その名号を称えるのが殊勝なのである」と応えられます。弥陀の本願に対しての信心が、浄土往生の決定的な要因には他なりませんが、その信心が、名号と別のものではないことを諭(さと)されるのであります。
 他力の信心とは、弥陀如来の働きそのものである名号のいわれを聞いて、なるほどとうなずくことであり、信心となった名号はその人の中に埋もれて消滅することなく、必ず「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称名となって発露するものであることを示されます。したがって称名と遊離した信心があるならば、それは他力の信心ではなく、またいかに専心に名号を称えたとしても、他力の信心が欠けていれば浄土への往生はかなわないと説かれます。


ここに、
①信心はあるが、称名のない人
②専心に称名をするけれども、信心が浅い人
③念仏で往生すると深く信じて(=信心)称名する人



の三種のタイプをあげ、
①は自力の信心に他ならない。
②は自力の称名で、ともに本願を疑う立場であって、真実の浄土に往生することができず、辺地(へんじ)にとどまるも のであることを戒められるのです。
これら二者に比較して他力の念仏者の姿が、
③のタイプであることを懇切に教えられるのであります。


上の分析の中で、「浅い信心」と「深い信心」が対比されています。浅い信心とはその人の信じる力が強固でないことですから、精神力の薄弱さをいうので、自力の信心を意味するのです。また私がどれほどに強固に、頑強(がんきょう)に信じ込んだとしても私の精神力によって成り立っているものであるかぎり、それはしょせん自力の信心でしかなく、私の精神力を超える力の前では、あえなく壊れてしまう性質のものです。どれほど強固な信心であっても、「浅い信心」の枠を超えることはできないのです。
 深い信心といわれているのは、私の精神力の強固さをいうのではありません。深いという形容詞は、私の心のありように対して付けられたものではなく、如来の本願力の深さにつけられた形容詞なのであります。他力の信心をご信心といいます。この信心につけられた敬意をあらわす接頭語の「ご」は、私の心に付けられたものではありません。私の心に入り込んで働いている如来の働きに付けられたものであることは、ご存知のとおりでありますが、いまの「深い」も同様で他力の働きであることを示すものであります。
 他力の信心は強固な信心や頑強(がんきょう)な信心ではなく、柔軟心といいます。 頑強な我執、自我の心が破れてやわらかい、自由な精神を得るからです。


▼浄土で待つ


 浄土真宗の法義は、本願によって浄土往生を得ることを説くものであります。来世に浄土に往生して仏になり、仏の大慈大悲の機能を持って人間界で果たしえなかった痛恨を完成するのであります。幼くして逝った愛児、あるいは手を合わすこともなくこの世を去った愛(いと)しい人々を、どれほどに悲しんでも、今生においてはどうすることもできないのです。この世でできなかったその願いを、浄土に往生して果たすのであります。

 他力の信心を得るのは、この世における人格の完成のためであるといって、来世の浄土を否定する発言を耳にすることがありますが、親鸞聖人の信心とは異なるものであることを注意しなければなりません。
 「きっとあなたに先立って往生するでしょうから、浄土であなたのおいでを必ずかならず待っております」の結びのことばは、人間的な情趣によった表現でありますが、如来の本願によって成立する浄土に、往生することの確信があふれています。
 聖人は浄土に往生されて、ゆかりのある人々がやってくるのを単に待っていらっしゃるのではないでありましょう。『御臨末の御書』にいわれているように大慈悲の機能に変現して、和歌の浦わの波が、寄せかけよせかけては返るように、いく万遍も浄土から帰ってきて導いてくださるのでありましょう。
 「必ずかならず待っております」は待機を意味するものではなく、「オネガイダカラ、スグキテオクレヨ」という同朋への切なる願いでありましょう。


                                        霊山勝海(よしやましょうかい)先生


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