真実の道 釈尊のさとりと浄土真宗



◇阿弥陀仏の救い



◆『大無量寿経』に説かれた阿弥陀仏の絶大な願い◆



 『大無量寿経』は、もちろん釈尊が説かれた経典ではありますが、
単に釈尊が自分の教えを述べられたものではなく、すでに仏となって極楽浄土の世界にあり、
いま私たちに救いの働きをしつつある阿弥陀仏のことを説き示されたものです。
 そこにはほぼ次のようなことが述べられています。
 

   生けるものすべてを苦しみから救いたいという願いを発した法蔵(ほうぞう)という比丘(びく)(修行者)が、
   長い思案の末、清らかな浄土を造って、そこにすべての人々を生まれさせることを誓った。
   長いあいだ努力を重ね、ついに浄土を西方に建設するとともに、
   どのようなものでも必ずそこに生まれさせる方法をも完成し、みずからも阿弥陀仏となって願いを果たした。
   その浄土の名は極楽で、仏の名は阿弥陀仏である。いまから十劫(じっこう)の昔であった。



 右のことは、一見、架空の物語のようですが、
このなかに私たちすべてのものを必ずさとりの世界(浄土)に導こうとする、
絶大な仏の願いとその方法が示されているのです。
そのような救済を実現した阿弥陀仏とはどのような仏でしょうか。
またすべての人を浄土に生まれさせる方法とはどのようなものでしょうか。
 

◆阿弥陀仏とはどういう仏なのか◆


 釈尊は私たちが、自分中心の心のために、ものの本当のあり方を見ていないところに迷いが起きている、
したがって、ものの事実としての本当のあり方をそのままに見るようになるならば、
私たちは迷妄から目覚め、本来の自分にかえることができると教えられました。
ここで迷いの世界から本当の世界に目覚めてゆくことが「悟り」であり、
目覚めた人が「仏」といわれます。そして、ものの本当のあり方、
それが「真如」といわれ「法」といわれ、あるいは「真理」といわれるものです。
 真如は、そのように、私たちが悟って仏となるためには、「知るべきもの」「求むべきもの」です。
しかし、真如の方もまた、自己のすがたを、それを知らないままに人々に知らせ、
本当の世界に同化しようとしています。ちょうど、光が闇を許さず、
それを破って明るい世界に変えてゆくように、それは真如が真実であるがゆえにもっている、
自発的、本来的な願いであり、働きなのです。
 しかし、ずっと迷いつづけている私たちには、そのような真如の世界のあることも、
それを見ることがいかに大切であるということもわかりません。
ただ「真如」といわれても、私たちには抽象的で理解できません。
私たちのことばや理解を超えた世界だからです。
そこで真如はみずからを私たちに知らせるために、私たちの理解の方法である言葉や形、
また因果関係のあり方にしたがい、人格的な姿をとって現れ出たのです。
それが「阿弥陀仏」です。それは、私たちを救うための手段として現れたところから、
「方便法身」ともいわれます。
ちなみに、この仏の名は、真如が「かぎりなく迷妄の闇を破る智慧の性格(光明無量)」と
「永久に迷いの人々を悟りへ導こうとする慈悲の性格(寿命無量)」とを内容としているところから、
その特性を言葉に表現して光明と寿命の無量の仏、阿弥陀仏と名づけられています。
 ただし、この仏は名前をもち人格的な形をとってはいますが、
私たちの世界に生まれられた釈尊が説かれたところを通じてはじめて、
その存在と救いの活動を知ることができる仏なのです。
この仏は、迷いの私たちをあくまでも悟りの世界に導くことを願い、
その目的の実現のために存在するものです。
 それでは阿弥陀仏は、どのようにしてすべてのものの救いを実行されるのでしょうか。


◇阿弥陀仏の救い


 なぜ私たちのような罪悪深重のものを仏は救いとることができるのか。
名号をもって仏智を与えられ浄土に往生する、絶対他力の浄土真宗の救いの構造が、
ここに優しい言葉でわかりやすく書かれました。


◆凡夫が救われてゆくただひとつの道◆


仏教で「救い」とは、迷えるものを目覚めさせ「仏にする」ということです。
それが実現するためには、救われる私の方にも、仏となる要因(仏因)が整わなければなりません。
しかし、私たちのような凡夫が、それを自分の力で身につけることは不可能です。
そのために探られたのが、仏の方で用意した仏因を私たちに与えて、仏にならせてゆく他力の方法です。
それは、どのようにして行われるのでしょうか。
 『大無量寿経』から知らされるところでは、阿弥陀仏は、まだ法蔵という修行者であった段階で、
私たちすべてを救いたいという願い(本願)を発し、四十八にわたる事項の具体的な実現を計画されました。
 それは「たとえわたしが仏になるほどになったとしても、
これらのことが実現しなければ仏にはなりません」「わたしはこんな浄土をつくりたい」
ということとともに、「わたしはこうしてすべてのものを浄土に生まれさせたい」
という救済の方法の実現が誓われています。
 浄土とは、迷いを脱した悟りの世界のことで、浄土に生まれる(浄土往生)とは、
仏の世界に入ること、すなわち仏になる(成仏)ということです。
そして、法蔵はすべての願いを実現して阿弥陀仏となられました。
それは、私たちすべてを救いとる浄土と、そこに生まれさせる方法が完成したからこそ実現した結果です。


◆阿弥陀仏の願いにこころから信順する◆


 その浄土に生まれさせる方法とは、いろいろあるうち、中心になるものは、
第十八番目に誓われた「たとえわたしが仏になるほどになったとしても、すべてのものが、
ほんとうに、疑いなく浄土に生まれさせられると思って、
わずか十声でも仏の名前を称えつつ生きるものを、
浄土に生まれさせることができないならば仏にはならない…」
という願いです。
 すなわち、仏は私たちに「疑いなく、浄土に生まれさせられると仏を信ずる心」を起こさせて、
浄土に生まれさせることを計画されたのです。
 なぜそれによって仏になることができるのでしょうか。
その心は仏の願いにこころから信順する心、すなわち「信心」で「清浄心」ともいわれ、
仏の心と同じ内容をもちます。
したがって、その心が起こるとき、それを「仏因」として仏になることが実現するからです。
 しかし、そのような心が、はたして凡夫である私たちに起こりうるでしょうか。
またもし起こったとしても、それは本当に仏の心の内容をもつものでしょうか。


◆仏への信順の心を起こさせる方法◆


 「こころからの信順の心」を起こせといわれても、迷いのなかにいる私たちには不可能なことです。
浄土に生まれることが大切であることも、そ
のための仏の願いがあることも気づく私ではないからです。
また、すべてを救うことを願う仏が存在するといっても、私たちには姿や形が見えませんから実感できません。
 そこで、そのような私たちであることを予想して仏が工夫し完成されたのは、
仏がみずからの存在と働きのすべてを名前(名号)に表して私たちに示し、
その名前を通して仏に絶大なる救いの願いのあることを知らせ、
仏への「こころからの信順の心」すなわち「清浄心(しょうじょうしん)」を起こさせるという方法です。
ここで仏が名前となってみずからを示す手段を選ばれたのは、名前という言葉を通してなら、
私たちにもその内容を伝えることができるからです。
 名号とは、「南無阿弥陀仏」の六字からなる言葉です。
その文字どおりの意味は「わたしは阿弥陀仏に信順します」ということですが、
それは仏が私たちに信順の心を起こさせるよう完成された名前であることを物語っています。
すなわち、名号は、私たちの信順の心となるように完成されているのです。
 この言葉は、仏の方からいえば、「われに信順せよ。かならずたすける」
という願いとその実現を告げる「名のり」にほかなりません。
すなわち、名号は、現にはたらいている仏そのものなのです。
だから、この名号を聞く(聞其名号(もんごみょうごう))とき、
かならず救う(摂取不捨(せっしゅふしゃ))仏があり、
私たちがかならず救いとられる存在である事実に目覚めさせられるのです。
 親鸞聖人は、この名号は、仏の願いに目覚めさせようと私たちにはたらきつづける、
仏の「呼び声」であると理解されました。
その呼び声によって、私にかけられている仏の大きな願いがあることに気づくとき、
私たちのかたくなな疑いのこころも「仏への信順の心」へと転換させられてゆくのです。
 救いの名のりを聞いて疑いのはれた心。それが「信心」です。
それは仏の心をそのまま受けとめた心ですから、仏の心そのものなのです。
そして、そのおこころをそのまま「私は阿弥陀仏に信順し、おまかせします」(南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))
と口に称えて表す(称名(しょうみょう))こと、それが「念仏」です。


◆仏への信順の心は仏の智慧そのもの◆


 仏の大きな願いの心が私にとどいて生じた「こころからの信順」(信心)
は、私の煩悩の心から起こったものではなく、全面的に仏から働きかけによって起きた心です。
仏が私に信心を起こさせるように南無阿弥陀仏の名号を設け、それによって起こされた心ですから、
それはまったく仏から与えられた信心です。私の上に起こった信心であっても、
それはすべて仏の方からの計画(はからい)によって起こされたものですから「他力の信心」といわれます。
この心こそがわたしが仏になる要因なのです。
 しかし、なぜ「信心」が、ながい修行によって完成する、仏の資格に匹敵する内容をもっているのでしょうか。
 仏の内容としての智慧とは、自己のはからい(自己中心の分別心)をとりさって、
もののほうとうのすがたを見る能力のことでした。
仏の絶大なる願いを聞いて、自分のはからいを捨て、すべてを仏のはからいにまかせた信順の心(信心)は、
じつは、その内容は仏の智慧(無分別智(むふんべつち))そのものです。
 親鸞聖人は「信心は智慧である」といわれ、また「信心はすなわち仏性である」ともいわれています。
だから、信心を得ることは、仏因が備わり仏になる資格が得られることとなるのです。
 もっとも、仏の心を与えられたといっても、なおこの世に存在し身体をもって生きているかぎりは、
やむなく煩悩にさえぎられる私たちです。心身ともに仏になるのは、この身体と別れたときですが、
しかし、信心を得るもの、その人はすでにかならず仏になる資格を備えているもの(正定聚)なのです。


◆称名念仏の意味するもの◆


 仏への信順の心が口に表れたものが、「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の仏名を称える称名です。
仏は「一声でも仏の名前を称えさせたい」と誓われ、仏への信順の心を起こさせることとあわせて、
私たちに称名念仏の起こることも実現されたのでした。
 この称名は、確かに私たちの口から出る言葉でありますが、仏の願いと働きによって起こされたものです。
たとえば「おかあさん」という言葉は、子供の方から出た言葉でありながら、
じつは「これがおかあさんですよ」と母の方からくり返し呼びかけて教えた言葉であるように。
 ところで、親鸞聖人は、仏の名を称えることこそ、真に仏の恩に報いること(称名報恩)であると理解されました。私が称名することは、仏の働きの実現の証拠であり、
それは、仏の偉大なる能力を讃えること(仏徳讃嘆)になるからです。
さらに、称名により仏の名が他の人々にも聞かれて広まり、
仏の偉大なる能力が多くの人々にはたらくこと(教化衆生(きょうかしゅじょう))になるからです。


◆どのような悪人も救われる◆


念仏によって得た他力の信心は、仏の方で完成され届けられた「清浄心」ですから、
私たちが欲望の混ざった自分の努力で積み重ねていった善行とは、
比較にならないほど完全な内容をもつものです。
ですから、信心を仏因とするものは、必ず完全なる悟り(無上涅槃)を得て仏となることができるのです。
 また、この信心は、私たちが過去に作ったどのような行為からも影響を受けない、
勝れた特性をもつものですから、いかなる悪い過去をもつもの、
またいかなる愚かなものも差別なく仏になることができるのです。
このような阿弥陀仏の救いの特徴を親鸞聖人はつぎのように理解されています。


     阿弥陀仏の考えおよばないような願いに救われて、浄土に生まれさせていただくと信じ、
     仏の名を称えようとするとき、私たちはすでに救われているのです。
     阿弥陀仏の救いの願いは、老人とか若者とか、善人とか悪人とかの区別を問題にしません。
     ただ、心から仏に信順する心(信心)こそが大切なのです。なぜならば、仏の救いの願いは、
     重い罪悪をもち、自己中心の心から抜け出ることのできないようなものを救うことに、
     もともとむけられたものだからです。だから仏の願いを信じるからには、
     なにか他の善を行わなければならないのではないか、と思う必要はありません。
     念仏以上の善はありえないのですから。また悪い行いがあってはいけないのではないか、
     と懸念(けねん)する必要もありません。どんな悪の行為でも、
     阿弥陀仏の願いを差しとめるほどの強い悪はありえませんから。
                                            (『歎異抄』第一章より)




                             上山大峻(うえやまだいしゅん)先生 聖典セミナーより


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