真実の道 釈尊のさとりと浄土真宗


◇いろいろの仏教

 
 現在、仏教と言われる宗教は、天台宗、禅宗、浄土宗などの多くの宗派に分かれています。そして、どれも仏教であるといわれながら、教えの内容にもかなりの違いがあります。なぜ同じ仏教でありながら違いが生じたのでしょうか。その中で浄土真宗はどのような教えであり、その宗祖・親鸞聖人とはどのようなお方でしょうか。


◆相手によって教え方が違う◆


人間は一人ひとり、能力、性格、経験などに違いがあります。だから同じ話をしても、すぐにわかる人もいますし、なかなか理解できない人もありま
す。違った資質をもつ人々すべてに、どうすれば正確に法(真理)を伝えて、同じ悟りへと導くことができるでしょうか。
 そのために釈尊が探られたのが「対機説法」でした。すなわち、相手(機)の能力や関心に対応して、話し方を変えてだれにでもわかるように真理を説いて(説法)ゆかれました。ですから、人それぞれに応じていろいろな教えが成立しました。仏教に「八万四千の教え」があるといわれるのはそのためです。


◆なぜ、種々の経典が◆


 釈尊は三十五歳で仏となられて以来、八十歳で亡くなられるまで、いろいろな場所で、いろいろな人に対して法を説かれました。そのような釈尊の説法を、お弟子たちが記憶にもとづいて編集したものが経典です。これには、釈尊滅後ただちに編集された『阿含教(あごんきょう)』、さらに時間を経て編集された『般若経(はんにゃきょう)』『法華経(ほけきょう)』『大無量寿経』などの大乗経典もあります。前述したように、釈尊は相手に応じていろいろに話をされていましたから、それらを編集した経典も多くの数になりました。種類や形式はいろいろですが、いずれも釈尊がことばをもって、私たちにどのようにして仏になるかの方法を示されたものです。釈尊亡きいま、これらの経典を通して、私たちははじめて釈尊の説法に遇い、その教えを知ることができるのです。


◆私たちの学ぶべき道はどれか◆


どんなによくきく薬でも、胃腸炎に風邪薬を与えていたのでは効果はありません。相手に合うようにそれぞれ違って説かれた多くの経典の中で、私が仏になるために最も適切な教えを説いている経典はどれか、それを見つけだすことが重要です。同じ仏教であれば、どの道をとっても同じ頂に到達できると考えやすいのですが、私の体力と力量にあった道を選ばないと、結局、頂に行き着くことができないばかりか、遭難することさえありましょう。大切な指導によって私たちにあった正しい道が選ばれなければなりません。選択を間違えば、どんなにその経典がすばらしい真理を説いているとしても、結局は私たちには理解できず、仏になることはできないでしょう。
 釈尊が生きておられたときであれば、釈尊の方から「おまえは、このように学べ」と、私の能力を見通して選択してくださったでしょう。しかし、釈尊はすでにおられません。そうした状況のなかで、勝れた才能と努力によって釈尊の教えのすべてを学び尽くし、私のおかれた時代や環境、能力などを考慮して、これこそ私たちの最も適した教えであると選んでくださったのが宗祖、あるいは祖師といわれる方がたです。 
 『法華経』にこそ釈尊の真意が語られており、この経典の学習こそ最高に仏教を学ぶことになると勧められたのは中国の天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)(五三八~五九七)でした。この教えの体型のもとに天台宗という宗派が成立しました。奈良の東大寺は華厳宗に属しますが、この宗派は『華厳経』にこそ仏教の真理が最もよくあらわれているとします。中国の賢首大師法蔵(けんじゅだいしほうぞう)(六四三~七一二)という方がその筋道を明らかにされました。仏教の宗派のいろいろはそうした経緯でできてきたものです。考えてみれば、私たちの能力では、とても多くの経
典の中から自分にあったものを探し出すということはできません。そのような意味で宗祖たちの果たされた役割は極めて重要です。
 いま。私たちが宗祖とする親鸞聖人(一一七三~一二六二)もそうした方がたの一人です。ただし、それまでの宗祖たちの多くが、いかに私たちに程度の高い仏教を学ばせるかという観点から経典を選択し、学び方を指導されていたのに対し、親鸞聖人は、まったく仏教に無関心であり、迷いの生き方しかできない最低の資質のもの(凡夫)を、どのように目覚めさせるかに仏教の中心課題があるという観点から、釈尊の教えの内容を判断されました。
 その結果、『大無量寿経』という経典に、親鸞聖人自身も含め、私たち凡夫が仏になることのできる唯一の道が示されていること、また、そのことを明らかにすることこそ仏の真意であって、その経典を説くことに釈尊が出世された本当の目的(出世本懐(しゅっせほんがい))があったことを顕らかにされました。
そして、その『大無量寿経』の教えるところ、すなわち「浄土真宗」こそ、私たちの学ぶべき「真実の教え」であることを明確にされたのでした。


◇浄土真宗の宗祖・親鸞聖人


 「浄土真宗こそ真実の教え」であるという確信に、親鸞聖人は決して簡単に到達されたわけではありません。聖人のすぐれた思索(しさく)きびしい宗教生活を通して、はじめて導き出されたものでした。聖人の教えの内容をより深く知るために、ここで親鸞聖人とはどのような人であったのか、簡単に生涯と著作についてたどっておきたいと思います。


◆九十年の生涯◆


承安三年四月一日(新暦千百七十三年五月二十一日)京都の日野家に生をうけられました。おりしも保元・平治の戦乱で社会秩序も価値観も崩れ去って、人々にとって現世に生きる希望がまったく見いだせない時代でありました。そうした状況のなかで、親鸞聖人は、九才にして僧侶となって仏道修行の道を進むことを決心し、以来、当時の仏教学修の権威である比叡山で二十年間にわたり厳しい修行を重ねられました。
 しかし、親鸞聖人がそこで見られた仏教界の現状は眼をおおうばかりのものでした。僧侶にはもはや道心なく、権力闘争にあけくれる様相はまさに世紀末というにふさわしい状況でした。そのような劣悪な時代環境に加えて、親鸞聖人自身、どんなに仏道修行をおこなおうとも、ますますみにくい心が見えてくるだけで、悟りへの条件である清浄な心になることなく、とうてい不可能な最低の資質である自分を実感されるばかりでした。
 そうしたゆきづまりのなかで聖人が、知られたのが、ちょうどその頃、東山の吉水の草庵(そうあん)で法然上人(法然房源空一一三三~一二一二)が説いていた、どんな悪人でも念仏すれば浄土に生まれて仏になることができるという「念仏往生」の教えでした。これこそ自分のようなものが仏になる唯一の教えであることを確信した聖人は、比叡山での仏道修行の方向から転じて、ただちに法然上人の弟子となり、(二十九歳のとき)、以後、念仏の道を自己の進むべき道と定められたのでした。
 地位や身分に関係なく、善人も悪人もすべての人が救われるという念仏の教えは、すべてのものから見放されていた民衆の間に急速にひろまりましたが、同時に、この教えは仏教の常識をはずれたもので、社会をまどわすものであるという強い非難が従来の仏教宗派より起こり、それをうけてついに承元元年(一二〇七)、朝廷より念仏の禁止命令がだされ、法然聖人も親鸞聖人も罪を問われて京都より追放されることになりました。(承元の法難)。
 聖人は僧侶の地位を取り上げられ藤井善信(よしざね)という俗人にされて新潟県の方に強制追放されました。聖人は、これにひるまず、この災難を念仏を広めるよい機会だと受けとめ、関東に移り住み、念仏の教えをひろめられたのでした。また、聖人は、当時の仏教の制度では禁止されていた結婚もされました。このように、仏道を歩みながら俗人である(非僧非俗(ひそうひぞく))自身のあり方を「愚禿(ぐとく)親鸞」と名乗り、普通の生活のままで仏になる道のあることをみずから示されたのでした。晩年は京都に帰り、弘長二年一月二十八日(一二六三年一月十六日)九十歳で往生されました。
 親鸞聖人の生涯に私たちが見ることができるものは、常識や権威にまどわされないで、何が真実かを判断の基準として、それをあまねくつらぬいてゆかれた姿勢です。
 時の権威である比叡山で二十年も積み重ねた学問を捨てて、仏の真意はどんな悪人をも救うところにあることを知って法然聖人の教える道を選ばれたこと、承元の法難で、たとえ流刑になろうとも自己の信念をつらぬかれたこと、わが子・善鸞が異説を説いていたのに対し、親子の縁を切ってまで真実を守ろうとされたことなどはそれを証明することでありましょう。この親鸞聖人の姿勢こそ、釈尊が最後に「自らを灯とせよ、法を灯とせよ」と示された仏教徒のあるべき姿勢にほかなりません。


◆かずかずの著作◆


親鸞聖人は、浄土真宗の教えは仏教の根本真理をはずれたものでは決してなく、むしろ仏教の正統であり、これこそ「真実」であることを多くの著作を通して顕らかにされました。
 そのなかでも『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』六巻(略称『教行信証』、『本典』)は、多くの経典や先学の著作に根拠を求めながら、体系的に『大無量寿経』の教え、すなわち浄土真宗がもっともすぐれた教えであることを明らかにされた最も重要な著作です。そのようなところから、この著作の完成の年(元仁元年)が、宗派としての「浄土真宗」の独立(立教開宗)の年であるとされています。
 聖人の著作には、右のような漢文で書かれたもののほかに、和文で書かれたもの、和文の歌の形で叙述されたもの(和讃)などがあります。
 また、関東地方の弟子たちと交わされたお手紙(消息)、弟子の唯円が、平素の親鸞聖人のおことばを編集した『歎異抄(たんにしょう)』などが遺されておします。ことに『歎異抄』は、生前の親鸞聖人のおことばがそのまま紹介されたものですので、聖人のお気持ちやお考えなどを、あたかも面前にあるがごとくうかがうことができる書物です。


◇自力の仏教と他力の仏教


 
 親鸞聖人をして、二十年もの比叡山の修行を捨てて他力念仏の仏教に大転換させた理由は何か。聖人が釈尊の真意を聞き取られた『大無量寿経』とは。そこに現れる阿弥陀仏とは、今号から、いよいよ浄土真宗の教えの核心にせまって述べていただきます。


◆仏の願いは私たちに向けられている◆


釈尊の教えに指導されて、自分が迷っていることに気づき、仏になることを志して、煩悩が起こることをおさえ、真理をみる能力を開発して、仏としての内容を備えてゆくことが、仏になるための学修の一般的なあり方です。仏教の多くは、この方法で学習を進めてゆきます。
 しかし、たとえ釈尊の教えを受けて、仏になることの大切さに気づいたとしても、次々に起こる煩悩の心を断ち切り、智慧を磨いてゆくことはなかなか困難なことです。ある程度、できたように思ってもすぐに元にもどってしまいます。よほど優れた資質と堅い意志をもったものであればともかく、私たちのようないつも目先の欲望を追いかけて、自分が迷っていることさえ気づかず、罪を造りつづけているような凡夫に、そのような仏教の学修を要求しても、とても実行は不可能なことです。
 といっても、そのままにしておれば、ほとんどの人が本当の自分に目覚めることのないまま、せっかくの貴重な人生を無意味に終わってしまうこ
とになります。そのような人々に対し、どのようにして目覚めることの大切さに気づかせ仏にしてゆくか、それがすべての人の目覚めを願う仏にとっては問題です。そのような人々を放置したままでは、仏はその資格を失うことにもなりましょう。
 そこで、そのようのもののために、仏の方から仏になるために必要な要因(仏因(ぶついん))を与え、それを元に仏にする方法が設けられているのです。それが「他力」の仏教です。釈尊が『大無量寿経』という経典で明らかにしておられるもので、すべての迷えるものを救いとることを願う阿弥陀という仏が、その願いの実現のために、救いの目的をもっぱら私たちの凡夫に向けて完成された仏への道です。
 このような他力の仏教に対して、前にも述べたような自分の努力で仏になってゆく仏教のあり方は「自力」の仏教といわれます。仏教にいろいろな教えの違いがあることは前号で述べたところですが、そのなかで法相宗(ほうそうしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)・禅宗(ぜんしゅう)・真言宗(しんごんしゅう)など、ほとんどの宗派の教えはこの自力の仏教のあり方をとるものです。


◆どのように修行しても断ち切れぬ煩悩◆


親鸞聖人が、はじめ二十年間にわたり比叡山で学ばれ修行されたのは、自力の仏教のなかでも、『法華経(ほけきょう)』に基づく天台宗の教えでした。この教えは、現象のあるがままに真理である(諸法実相(しょほうじっそう))と観察し、煩悩を断じるために六波羅蜜(ろくはらみつ)などの菩薩の実践を行い、ついにこの世で浄土を見、仏を見ることができる身になることをめざします。もちろん、それが完成するまでには、長い修行が不可欠です。千日回峰行などの厳しい修行もそのために行われる必要があるのです。
 確かに、そのような修行の結果、すばらしい悟りの世界が開けてくるかも知れません。しかし、このような難しい学問や修業は、一般の人々には
とてもできることではありません。聖者の人々にのみ可能な教えといえましょう。この教えは聖者の歩む道であることから自力聖道門(しょうどうもん)であるといわれています。
 二十年間の比叡山での学問修行の生活のなかで、親鸞聖人もこのような修行の道を歩まれたにちがいありません。だが、聖人には煩悩を立ちきろうと努力すればするほど、見にくい自分の心の現実が見えてくるのでした。親鸞聖人は著述のなかで、「自分の心は、蛇や蠍のようである」と告白し、また「たとえ修行をしても、すべて毒がまざっていて、ごまかし(虚仮)である」と厳しく見つめておられます。聖人は、自力の教えにしたがっていかに修行しても、実際には仏になることの不可能であることを見きわめられたのでした。
 このことは聖人一人だけの問題ではなく、同じような愚かな多くの人々にとっての問題でもあります。おそらく、聖人には、「自分のような凡夫にとって仏になる道は閉ざされているのか。仏はそのようなものは見放しているのか」という重大な疑問がわきあがってきたことでしょう。


◆釈尊が生涯でもっとも説きたかった教え◆


そうした煩悶の中にあるとき、親鸞聖人は法然聖人から、『大無量寿経』に顕らかにされている「念仏して仏になる」他力の仏教があることを教えられました。また、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、天親菩薩(てんじんぼさつ)、曇鸞大師(どんらんだいし)などの先学(せんがく)たちも、その教えが自力の仏教よりも易く、早く、完全に仏にいたる道であると勧めておられることを知らされました。この、他力の教えの存在こそ、親鸞聖人の疑問に答えるものです。聖人は直ちに、それまでの自力の仏教を離れ、他力の仏教を自己の本当に救われる道として選びとってゆかれました。聖人、二十九歳のときのことです。
 他力の教えは、法然聖人や親鸞聖人のときになって、突然現れたわけではありません。また、法然聖人が独自に創設された教えでもありません。早くから仏が、私たちのような存在を見通してすでに説かれていた教えです。
 しかし、仏教の高い内容の方に多くの関心が向いていたために、すべての人々を差別なく救うという仏教本来の趣旨が見失われ、愚かな凡夫に対応する教えは低級のものだと誤解されて問題にされなかったのです。
 法然聖人や親鸞聖人は、そうした仏教の本来の趣旨を正しく顕らかにされたわけです。すなわち、

  ①他力の仏教は、程度の低いものを対象にするから、内容も低いものだということではなく、
   むしろ重病を救う薬がすぐれているように、最勝の法であるということ。
  ②念仏は、修行の一部分として有効なのではなく、念仏だけで仏になる働きをもつものであること。
  ③他力の仏教では難しい修行は必要ではなく、したがって易しい仏教であるが、
   決して第二次的補助的なものではなく、悟りの結果に差はないこと。
  ④差がないばかりでなく、他力の仏教では仏因は仏から与えられたものであるから、
   不完全な私たちの努力によって得た結果より完全なものであること。
  ⑤念仏の教えは、どうしようもない凡夫・悪人を救う目的のために用意された道であるから、
   凡夫・悪人の法が当然救われるべきものである。
   などのことが明確にされました。


 釈尊自身『大無量寿経』を説いたのは「群萌(ぐんもう)(凡夫)に真実の利益を与えるため」であるといわれているように、この経典はまさに凡夫のために明らかにされたものでした。すべてのものを救うにあたっては、凡夫が救われることこそが課題です。したがって、それを果たす『大無量寿教』の教えは、釈尊が生涯のなかで最も説きたかったもので、釈尊がこの世に現れた本当の目的(出世本懐(しゅっせほんがい))はここにあるといえましょう。
 凡夫を含めすべてのものを救う教えこそ、「真実の仏教」といえるものです。それに対し、聖者(しょうじゃ)のみを対象にした自力の仏教は仮の教えにすぎないといえましょう。 親鸞聖人は、そのような判断のもとに、『大無量寿経』を真実の教えとして、みずからの進む道として定められたのでした。



                              上山大峻(うえやまだいしゅん)先生 聖典セミナーより
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