◇本願文のこころ①
 今号より、親鸞聖人が、その当時に本尊として安置された名号や祖師方の画像の讃文を集め、そのこころを丁寧に解説された『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』をとりあげ、中央仏教学院講師白川先生に講じていただきます。今回は、浄土真宗のみ教えの上で、もっとも大切なご文である『仏説無量寿経』の第十八願文をとりあげ、他力の救いが詳しく述べられている「至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)我国」の本願の三心と「乃至十念」の釈文を中心に解説していただきます。 

◇尊号真像銘文とはどんなお聖教ですか?

 本書の内容は、『尊号真像銘文』という書名にそのままあらわれています。
「尊号」とは親鸞聖人が書かれた名号本尊を指し、また「真像」とは浄土真宗の教えを伝えてくださった七高僧、
あるいは親鸞聖人が敬慕の念を抱いておられた聖徳太子や聖覚法印などの肖像画を指します。
そしてその内容を讃えるために経・論・釈・などをもって記された讃文をいいます。
 現在、親鸞聖人の真跡といわれ、蓮華の台が画かれているために礼拝の対象とされていたことをうかがわせる名号本尊は、
南無阿弥陀仏の六字や南無不可思議光仏の八字、帰命人十方無碍光如来の十字、の三種六幅が伝わっています。
また、聖人在世中に画かれた真像としては鏡の御影や安城の御影があり、
これらの名号本尊や真像にはいずれもその上下に銘文が記されています。そして、聖人が名号や真像を門弟などに与えられた後に、
銘文の意味を平昜に解説して欲(おも)しいという要請を受けて、そのこころをやわらげて解説されたのが『尊号真像銘文』
という書物ではないかといわれています。ただ、解説されている銘文がどの尊号の銘文にあたるのか、
明確に判断しがたいものも多くあります。
 本書には、聖人の真跡が二本伝わっています。一本は聖人八十三歳に書かれ、
近年まで福井県・大味浦の法雲寺に伝わっていたものが現在は東本願寺に、
他の一本は八十六歳に書かれたものが真宗高田派の本山専修寺にそれぞれ所蔵されています。
八十三歳に書かれたものは十種十六の銘文で構成されているのに対し、
八十六歳に書かれたものは内容が整備増加されて十三種二十一の銘文で構成されています。
そこで古来から前者を略本、広く詳しい内容をもつ後者を広本と称しています。その中、ここで味わう広本は本と末の二巻に分けられ、
本には『大経』の本願文をはじめとする三文、『首楞厳経』の一文、『十住毘婆沙論』の一文、『浄土論』の二文、迦才の一文、
智栄の一文、善導大師の三文、聖徳太子和讃の二文の十四文、末には源信和尚の一文、劉管の法然上人讃一文、
法然上人の三文、聖覚法印の一文、親鸞聖人自身の一文の七文が収められています。そこには、煩悩罪悪に汚染され、
自らの中に何一つあてになるものがない凡夫のために、本願を信ずる身になることによってのみ
浄土往生が約束された正定聚の位に住して、必ず成仏できる旨が二十一の銘文によって讃嘆されています。
銘文によって浄土真宗の教えの要点がわかりやすく讃嘆されているため、大切な内容をもつ書物です。

尊号真像銘文『大経』「第十八願」【註釈版本文】
 「大無量寿経言」といふは、如来の四十八願を説きたまへたる経なり。
「設我得仏(せつがとくぶつ)」といふは、もしわれ仏を得たらんときといふ御ことばなり。
「十方衆生」といふは、十方のよろずの衆生といふなり。
「至心信楽(しんぎょう)」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪(じょくあく)邪見(じゃけん)のゆゑなり。
「信楽(しんぎょう)」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽(しんぎょう)と申すなり。
この「至心信楽(ししんしんぎょう)」は、すなはち十方の衆生をして、
わが真実なる誓願を信楽(しんぎょう)すべしとすすめたまへる御ひかひの至心信楽(ししんしんぎょう)なり、凡夫自力のこころにはあらず。
「欲生我国(よくしょうがこく)」といふは、他力の至心信楽(しんぎょう)をもって安楽浄土に生まれんとおもへとなり。
「乃至十念(ないしじゅうねん)」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、
時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。
如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常(じんじょう)の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、
ただ如来の至心信楽(ししんしんぎょう)をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、
正定聚の位に定まるとみえたり。
「若不生者不取正覚(にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく)」というは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり。
「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽(ししんしんぎょう)をえたるひと、
わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたるみのりなり。
この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」と申すは、すなはちこの真実信楽(しんぎょう)をひとすぢにとるこころを申すなり。
「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」といふは、「唯除」といふはただ除くということばなり、
五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、
十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

【意 訳】
 『大無量寿経』というはのは、阿弥陀仏の四十八の願いをお説きになった経典です。
その根本の願いが第十八願であるために、それを本願と呼ばれます。
その中、「設我得仏(せつがとくぶつ)」というのは、もし私が仏になったとき、という言葉です。
「十方衆生」というのは、あらゆる世界のすべての人々ということです。
「至心信楽(ししんしんぎょう)」というのは、至心は真実という意味であり、如来の誓いが真実であることを至心と言います。
煩悩にまみれた人々は、悪に染まり誤ったものの見方しかできないために、本来真実の心や清らかな心は一欠片もありません。
また「信楽」というのは、如来の本願の誓いが真実であられることを、ただ一筋に信じて疑わない心になることをいいます。
したがって、この「至心信楽(ししんしんぎょう)」は真実のないあらゆる衆生に、如来が「私の真実の願いと誓いを信じなさい」
と勧められた誓いであって、凡夫の私たちがおこす自力の心ではありません。
「欲生我国(よくしょうがこく)」というのは、如来によっておこされた至心信楽(ししんしんぎょう)の心によって、
安楽浄土に生まれることにまちがいないという心がそなわることです。
「乃至十念」というのは、如来の誓われた名号を称えることを勧められるのに、
称える回数や称え始めてからの時間に決まりがないことを私たち衆生に知らせようと考えられて、
「乃至」の言葉を「十念」のみ名に添えて誓われたものです。如来よりのお誓いを賜って信心がそなわった上は、
平生の時を大事と心得て、臨終のときの称名念仏を期待してはなりません。ただ如来が誓われた「至心信楽(ししんしんぎょう)」
を深くたよりとすべきです。この真実の信心が得られたときに、摂めとって捨てない如来の光に包まれるために
浄土往生が約束された正定聚(しょうじょうじゅ)の位が定まるといえます。
「若不生者 不取正覚」というのは、「若不生者」は、もし生まれることができないようであれば、という仏の決意であり、
「不取正覚」は決して仏にならないと誓われた約束です。
それは他力信心を獲得した人が浄土に往生することができなければ仏にならないと表明された、
私たち衆生の往生と阿弥陀仏の成仏を一体にして誓われた確かな約束です。
 この本願の内容は聖覚法印(せいかくほういん)の『唯信抄』に詳しく示されています。
「唯信」というのは真実の信心をただ一筋に獲得する心をいいます。
本願文の最後に示される「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」というのは、「唯除」とはただ除くという言葉です。
五逆の罪を犯した極悪人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことを知らせようとされることです。そして、この二つの罪の重いことを示して、
十方のすべての人々がみな洩(も)れず往生できることを知らせようとされているのです。

▼本願文と三つの柱


 親鸞聖人の教えは『大経』の本願の内容に凝縮されるといわれています。
漢文でわずか三十二字の中に浄土真宗の教えが盛り込まれているのです。
 その本願の内容は大きく分けて三つに分けられます。すなわち阿弥陀仏の救いの対象、救いの方法、救いの結果です。
救いの対象としては「十方衆生」「唯除五逆誹謗正法」の言葉によって悪人の救いが、
救いの方法としては「設我得仏」「至心(ししん)信楽(しんぎょう)欲生(よくしょう)我国、乃至十念」「不取正覚」
の言葉によって他力の救いが、そして救いの結果としては「若不生者」という言葉によって往生の救いが示されています。
そこには、あらゆる衆生(悪人の救い)を信じさせ念仏を称える身にさせることによって(他力の救い)往生させる(往生の救い)
という救いの内容が明らかにされています。
 この三つの柱はいずれも浄土真宗の教えの特色でもあり、仮にその中のどれか一つでも外したらならば、
最早浄土真宗の教えとは言えなくなります。そういう意味で、本願が説かれることがなかったならば、
親鸞聖人の教えも存在しなかったといっても過言ではありません。それほど本願文は重要な意味をもっているのです。
 『尊号真像銘文』の冒頭には、その本願文が解説されています。
「〈大無量寿経言〉といふは、如来の四十八願を説きたまへる経なり」と述べられ、続いて本願文が解説されていることは、
四十八願は要をとれば第十八願におさめられるとみておられたことになります。

▼本願の三心

 『銘文』の本願文の解説には、三つの柱の中、特に救いの方法とその対象が詳しく述べられています。
そこには、救いの方法としての他力の救いが「至心(ししん)信楽(しんぎょう)して、
わが国に生ぜんと欲(おも)ひて」と具体的に示されています。
この至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)の三心は、信楽(しんぎょう)一心に摂まって他力の信心をあらわす言葉であり、
これを聖人は「涅槃の真因はただ信心をもってす」と表明 されるなど、往生成仏の果を得るための因(タネ)であるといわれます。
しかしこの三心は、本来至心(ししん)とは真実の心、信楽(しんぎょう)とはまかせて疑いのない心(疑(ぎ) 蓋無雑(がいむぞう))、
欲生(よくしょう)とは浄土往生したいと欲(おも)う心という意味であり、これは私たち凡夫が到底おこせるような心ではありません。
 私たちに至心(真実の心)がおこせるかといえば、『教行信証』「信文類」に、
    一切の群畳海(ぐんじょうかい)、無始よりこのかた乃至今日今時(ないしかんにちこんじ)に至るまで、
    穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心なし、虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし

と悲嘆されるように、一切の愚かな衆生はもともと煩悩罪悪に汚染され、偽りやへつらう心しかないために清浄真実の心がないということは、迷いの世界からぬけ出すために役立つものは何一つ持ち合わせていないということです。
 また欲生(浄土へ往生したいと欲(おも)うこころ)があるといえば、これも『歎異抄』に、
    久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、
    いまだ生まれざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ
    
と語られるように、浄土が恋しい・生まれたいという心さえ持てないのが、煩悩の勢い盛んな私たちです。
浄土へ生まれたいと欲(おも)う心は、言い換えれば娑婆世界から別れを告げるということですが、
いつまでたっても迷いの世界である苦悩の故郷に名残惜(なごりお)しいのが偽らざる私たちの心です。
 そこで聖人は「信文類」法義釈の至心釈、信楽釈、欲生釈において、
この至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)の三心はいずれも凡夫が自力でつくりあげる心ではなく、
すでに阿弥陀仏が清浄真実の心をもって成就(完成)された心として受けとめていかれました。
したがって三心はすべて仏の心を示すもの(仏三)であって、南無阿弥陀仏の名号の内容をそのままあらわしたものであるともいえます。
すなわち至心(ししん)は如来の真実心である智慧を、欲生(よくしょう)は衆生を往生させずにはおかないという如来の慈悲を、
信楽(しんぎょう)は衆生を救うことにおいて一点の疑い・危ぶみもないという如来の心であって「まかせよ、
必ず救う」という喚びかけを示されたものとする見方です。南無阿弥陀仏の名号は
「本願を信じ(南無)させずにはおかないという智慧と慈悲(阿弥陀仏)のはたらき」であるため、衆生に施され、
信楽一心におさまって他力信心をあらわす旨を明らかにするために、それぞれを仏の心と衆生の心にあてはめて解釈しておられます。

▼『銘文』に示される三心

 この『銘文』に示される三心は、至心を仏の心に、信楽と欲生を衆生の心にあてはめて(仏一生二)解釈されたものです。そこには、
    『至心信楽』というは、「至心」は真実しんなり。真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
    煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、
    如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。‥‥‥
    「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもって安楽浄土に生まれんとおもへとなり

と述べて、煩悩にまみれ悪に染まり、誤ったものの見方しかできないために、真実の心や清らかな心の一欠片もない衆生が、
阿弥陀仏によっておこされた真実心(至心)をふたごころなく信じて疑わないという心になることが信楽であるとされます。
また、欲生については「安楽浄土に生まれんとおもへ」と述べられますが、善導大師が回向発願心を解釈された文を引用して示される。
「得生の想をなせ(作得生想)」と同じ意味です。すなわち浄土へ生まれたいとおもう心を意味するものではなく、
必ず浄土往生できる・浄土往生は間違いないという想い(欲生)になる心を指し示しています。
また、浄土往生はまちがいないという想は、本願の真実を疑わない心(信楽)と別の内容を示すものではありません。
信楽にもともとそなわっている内容(義)を別に開いたものであるために、信楽の義別ともいわれます。
 この三心に続いて、本願には「乃至十念」の称名念仏が誓われています。
その「乃至」について、「遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを、
衆生にしらせん」ために添えられた言葉であると述べられています。遍数を定めないということは、
称える数の多少にとらわれないということであり、時節を定めないということは、平常とか臨終を問わないということです。
すなわち称える衆生の行為に巧みをみたり、往生の条件となるような念仏ではなく、
信心の相続をあらわす報恩感謝の念仏であることを示すために、このような解説がされています。
そこで、「乃至十念」の文を結んで「ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり」と述べて、
往生のために他力の信心一つをたよりとすべきことが訴えてあります。
 
◇本願文のこころ②

 前回に引き続き、本願文(第十八願文)のこころをうかがいます。本願文には、「十方衆生」の救いが誓われてありますが、
その末尾には、「唯除五逆誹謗正法」と但し書きがあり、父母・聖者を殺し。
教団の和合を妨げるなどの五つの重罪を犯したものと仏法を謗るものは、救いの対象から除くと示されています。
今回は、この「唯除」の文についての曇鸞・善導両大師の解釈と親鸞聖人の領解を通して、
本願の救いのめあてについて講じていただきましょう。

▼「逆謗除取」について  

 本願文には阿弥陀仏の救いの対象について、「十方の衆生」と誓われ、あらゆる人々がその対象とされますが、
しかし、その結びには「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」という言葉が置かれ、
五逆と謗法(ほうぼう)の人は救いの対象から除外されるとあります。五逆とは父母や聖者を殺したり、
教団の和合をさまたげるなどの重罪を犯した人であり、謗法は仏法を謗る人です。この言葉をどのように解釈すべきかについて、
『観経』の「下品下生釈」に五逆の人も念仏の教えによって救われると説かれていることと関連して、
古来から「逆謗除取」という問題で論議されていました。
七高僧の方々の中でも特に曇鸞大師や善導大師はその解釈に苦心を払われています。
 この問題に最初に注目されたのは曇鸞大師です。すなわち『往生論註』上巻の終わりに、天親菩薩の『浄土論』の偈文に、
    あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん
と示される「もろもろの衆生」がどのような衆生を指すのかについて、八つの問答を設けて論じられる中に明らかにされていきます。
その要旨は、『大経』の本願成就文には五逆と謗法の罪人は救いから除かれると説かれているが、
『観経』の「下品下生釈」には五逆の人も往生できると説かれてあり、
この矛盾をどのように考えていくべきかというべきかという問いに対して、『大経』は五逆と謗法の二罪、
『観経』は五逆の一罪のみという違がある。中でも謗法の罪はきわめて重く、仏法を謗り、
それを認めようとしない人であるために当然浄土往生を願う心もない。
往生を願おうとしない人が往生できる道理は成立しないという論理をもって、成就文には救いから除かれるとされるのです。
しかし、これを裏返しに言えば『往生論註』下巻の口業功徳釈に
    衆生は憍慢をもつてのゆゑに、正法を誹謗し、‥‥‥、かくのごとき等の種々の諸苦の衆生、
    阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞けば、上のごとき種々の口業の繋縛、みな解脱を得て、
    如来の家に入りて畢竟じて平等の口業を得

と説かれているように、謗法の人でもその間違いに気づき、心を改めて名号のいわれを信じ浄土往生を願えば、
どのような人でも皆救われるということになります。
 善導大師は、「逆謗除取」について、『観経疏』「散善義」に『観経』の「下品下生釈」を解釈される中に、その見解を示されています。
それによりますと、本願文に除かれると説かれるのは、謗法(ほうぼう)と五逆の二罪は極重の罪であり、
その罪を造れば地獄に堕ちていくべき身となるために、いまだそのような重罪を造っていない未造業の衆生に対して、
罪を犯させないように抑止(おくし)(おさえとどめる)して往生できないことを示した法門(抑止(おくし)門という)であるという見方をされました。
しかし、そのような重罪をすでに造った已造業(いぞうごう)の衆生はどうかといえば、
弥陀の大悲は見捨てることが忍びがたいがために、「下品下生釈」には五逆の人も摂取し、
また謗法の人も回心すれば摂取することを示した法門(摂取門という)が説かれていると受けとめて、両者の矛盾を巧みに解釈されています。  したがって『法事讃』には、
    仏願力をもって五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提と回心してみな往くによる
と述べて、謗法も回心すれば往生できると語られます。
 このように曇鸞大師や善導大師の上においては、その結果は異なっていても五逆・謗法の衆生も本願の救いから
洩れるものではないという点では、一致しています。

▼親鸞聖人の「唯除」の解釈

 親鸞聖人はそれらの解釈を承けて独特な領解をされ世のすべての人々は、
一人として例外なく五逆や謗法(ほうぼう)の罪を犯した極悪人であると見ていかれました。これについて『尊号真像銘文』には、
「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」といふは、「唯除」といふはただ除くということばなり、
五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、
十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
と述べて、本願に「ただ除く」とあるのは、救いから除外されるという意味ではなく、
「しらせん」という言葉遣いで二つの文章が結ばれているように、
私たちに二つのことを知らせるために設けられた表現と受けとめられています。
すなわち阿弥陀仏は五逆や謗法(ほうぼう)の罪を決して好まれるのではなく、私たちが五逆や謗法(ほうぼう)の極悪人であることを知らせ、
しかも、そのような極悪人であるために本来は救われるべきはずのないことを示して、
救われるはずのない人々を見捨てずに救うことを知らせるのが「唯除」の意味であるとされます。
 そこには父親の厳しさと母親の優しさが同居しています。厳しさの伴わない優しさは単なる溺愛でしかありません。
叱られ、痛い目に合うという厳しさを何度か体験して、どうしようもない自分の本当の姿がわかってきます。
如来の慈悲も智慧と相離れない関係にあります。それは、厳しさをもって本来は救われるはずのない真実の相を
知らせる(仏の智慧)とともに、優しさをもって救われるはずのない人びとを見捨てずに
かならず摂め取る(仏の慈悲)はたらきを示されたものです。
 ところで、五逆罪とは、親を殺し、その恩をも顧みないもっとも重罪を犯した人を指しますが、実際には親殺しをするような人は希であり、
自分自身を五逆罪にあてはめて考えている人はいないと思います。しかし、はたしてそうでしょうか。
以前、NHKのラジオ放送で、女性落語家が「落語家を殺すには刃物はいらぬ、あくびの一つあればよい」としゃべっていましたが、
親殺しの場合も刃物を使わなくても可能です。五逆・謗法について
『親鸞聖人御消息』の中で、
    師をそしり、全知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候へ。
    すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず
    全知識をおろかにおもひ、師をそしるのをば謗法のものと申すなり。
    おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり
と示される説明によれば、実際に師匠や親殺しをしなくても、師匠や親をそしり、おろそかにする人を五逆罪とされています。
親に背き反発しているときは親を親と思っていないときですから、親殺しも同然です。
このように考えますと、いまだかって一度も親を殺したことはないという人は皆無ではないでしょうか。
 また、阿弥陀仏に背き反発するこころは親に背く以上に重罪です。
如来の真実の教えに気づこうとしない人は仏を殺すことですから、五逆罪を犯しているとともに、おのずと謗法の人にもなります。
しかしながら、五逆罪や謗法の極悪人と気づこうとしないのが愚かな私たちの現実の相でもあります。
 このような親鸞聖人の領解は、本願文に示される文字の表面からはとても思いつきませんが、『正像末和讃』「悲歎述懐讃」に、
     悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
     修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたり
と悲歎され、みずからを蛇やサソリのように毒をもって相手を傷つける極悪の存在と徹していかれた立場が
このような領解に結びついているといえるでしょう。

▼極悪人にそそがれる如来の慈悲

 五逆・謗法の極悪人の存在であれば見捨てられても仕方がないかもしれません。しかし、
どんな子供であろうとも親は見捨てることはありません、否、どうしようもない子供だから特に力を注いで育てるのが本来の親の姿です。
 親鸞聖人は救われがたい衆生を、『教行信証』「信文類」に具体的に三種類あげておられます。
    それ仏、難治のきを説きて、『涅槃経』にのたまはく、
    「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。
    かくのごとときの三病、世のなかに極重なり。……」

一つには正しい仏法を謗る「謗大乗」、二つには父母・聖者を殺し教団の和合をさまたげるなどの重罪を犯した「五逆罪」、
三つには仏法を信ぜず求道心のない「一闡提」です。そして、同じく「信文類」には、
親の子に対する情がたとえられた『涅槃経』の文を引いて、
    たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、
    しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり

 
と示されます。親とすれば七人のわが子は誰一人として可愛くない子はありません。
その中の一子が重い病にかかって苦しんでおれば、親の心がひとえに病の子に向けられていくように、
如来の慈悲も特に極悪人に注がれるのです。したがって『教行信証』の総序には、
    権化の仁、斉しく苦悩の群萌もうを救済し、世雄の悲、ましく逆謗闡提を恵まんと欲す
と示され、如来の本願がまさしく目あてとする衆生は極悪最下の逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)にあるとされるのです。
本願文には、極悪の存在であるために迷いの世界から抜け出すために役立つものは何一つ持ち合わせていない私たちを、
なんとしても救わずにはおかないという如来のはたらきが、ただ信心一つの救いとして明らかにされています。

                                                               白川 晴顕 先生

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