生老病死「生活の中の仏教」


                                               ホーム                                           

 仏教を自分のものにする―ちょっと大胆な言葉ですが、思わずどきっとするような響きを与えませんか。それは「仏教」との距離を裏返しにした言葉だからでしょう。人類の英和といわれ、八万四千の法門といわれてきた巨大な仏教が、あまりにも大きすぎて、日常的な生活感覚の中で過ごしている私たちの手には届いているのだろうか、というもどかしさです。そこで今回から新しくスタートしたこのシリーズでは、筆者の佐藤先生とご一緒に、そのようなもどかしさを打ち破る「生活の中の仏教」を探っていきたいと思います。

▼問いが大切である▲


 「阿含経(あごんきょう)」といわれる仏教の最初期の経典群があります。それを見ますと、そのほとんど大部分は、まず問いがあって、釈尊がそれに答えられるという形をとっております。
 たとえば、大目健連というものがたずねました。彼は数学者らしく、数学の教え方には、順序があり、段階があるが、釈尊の教え方にも、そういう順序や段階があるのかと問います。釈尊は、親切にその指導の順序を説明されました。すると、彼はさらに、そのような指導を受けた弟子たちは、みな目的の境地に達しうるかどうか、と問います。
 それに対して、釈尊は、「友よ、私の弟子にも、そこまで到りうるものがあり、また到りえないものもある」と答えられます。
 これは少しおかしいことです。仏教ではすべてのものがことごとく仏になるという、「悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」ということが説かれているのではありませんか。だから、この数学者は、それはまたどういうわけであるか、と重ねて問います。 
それに対する釈尊の答えは教訓的です。


 「友よ、あなたは王舎城(おうしゃじょう)へ行く道を知っていますか。」
 「世尊よ、私はよく知っています。」
 「では友よ、ここにひとりの人があって、あなたに王舎城への道を問うたとします。あなたは、詳しく道を教えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、ある者は無事に王舎城に到達することができるが、ある者は、道をまちがえ、あらぬ方に迷うこともあるでしょう。それはなぜでしょうか。」
 「世尊よ、私は道を教えるだけであって、それをどうすることができましょう。」
 「友よ、その通りです。無上安穏(むじょうあんのん)の境地はまさしく存在します。そこに到るべき道はまさしく存在します。そして、私は導者であります。それにもかかわらず、弟子の中にはその境地に到りうるものがあり、また到りえぬものもあります。それを私が、どうすることができましょうか。私はただ道を教える者なのです。」



 私たちは、さまざまな問いをもっています。それを仏典にぶつけます。一応の答えは返ってきます。しかし、さらに問いを重ねるとき、釈尊は逆に反問されます。しかも、私たちの卑近(ひきん)な生活上の事実をもって反問されます。いわば、このようにして、私たちの問いを整理され、私たちの反省を促しておられるのです。ただ問うだけではなくて、正しく問うことが肝心なのです。私たちの問いを本当の問いに仕上げることが必要なのです。さもなければ、本当の答えは返ってきません。 
 しかも、その答えをわがものとするのは、もっぱら私たちのことであり、答えをたんに向こうに眺めていてはいけないのです。
 答えが与えられたら、それで終わったのではないのです。王舎城への道を聞いたということは、必ずしも王舎城へ到達したということではありません。答えより大切なことは、示された道をみずから歩むことです。そして、歩むのはほかでもない、私自身なのです。答えのほんとうの意味は、みずからそれを歩むことによって、はじめて明らかになり、その人のものとなるのです。 これから私は、そういう形で「生老病死(しょうろうびょうし)」について、いっしょに考えていきたいと思います。このテーマを選びましたのは、即如ご門主の出された『教書』に示された次の文章によるものです。
 
     宗教は、人間のかかえている究極的な問題、
    
すなわち、老病死の苦悩の解決にかかわるものであります



 そこで私の立てた問いは、「では仏教で老病死の問題はどのように考えられているのか」ということです。もちろん、生苦(しょうく)、老苦(ろうく)、病苦(びょうく)、死苦(しく)を合わせて四苦という、ということはだれでも知っています。しかし、形式的にそういう知識をもっていても、実質的な内容が伴わなければ、何となく空しいと思われます。いったいそこにどんな問題があるのか、それが私たちの生きていく上にどんな意味をもつのかが問われねばなりません。といいますのは、老病死ということは、私たちの生活に他ならないからです。そして、私たちはそれについていろいろな問いをもっています。私はそれを整理して、私たちの生活の現実を分析して、問いを形作ろうと思います。
 さらに望むらくは、仏教の答えがどの辺にあるかを探ろうと思います。
もちろん、教義を先に出してそれを現実に適用するという行き方もあります。しかし、ここであえて問いから出発しようというのは、一つには私が仏教学者でも真宗学者でもないからです。いわば私は皆さんと同じ生活者として、答えを与えることよりも、生活の中に意味ある問いを形成することに重点を置いたわけです。ひいては、それが読者の皆さまにも益するところがあると期待するからであります。仏教は学者の中にだけ生きてはたらくものでなければならないと思います。「生活の中の仏教」と名づけたゆえんであります。


▼「生苦」とは▲


 仏教で「生」というとき、それはつねに「生まれる」、「生ずる」ということであって、「生きる」ということではありません。
 時点によりますと、生苦とは、「托胎(たくたい)から出生までの苦しみ」であると書いてあります。しかしおかしいとは思いませんか。受胎から出生までの間のことを、私たちは何も知らないからです。その間の苦とは、いったい何のことでしょうか。受胎(じゅたい)があり、出生があって、私がこの世に生まれたことは確かな事実です。しかし、私はその間のことを何ら覚えていません。生まれるということは、自己経験としては認識されていないのです。死が私たちに知られないと同じく、誕生も私たちに知らない面をもっています。ということは、それが私たちの常識的に知っているより以上のもの、いわば不思議なことを含んでいるということです。
 では生苦とは何でしょうか。「苦」というのは、「苦痛」とか、「苦しい」ということではなく、「思い通りにならない」ということなのです。すると次のように考えられます。
 私たちは、自分の才能や容貌(ようぼう)を選んで生まれてくるわけではありません。親を選ぶこともできず、また誕生の時を選ぶこともできません。それらはすべて私の意志にかかわりなく与えられるのです。人間は自分で自分を生んだわけでも、作ったわけでもありません。それこそ、こういう人間に生まれたくて生まれてきたのではないのです。それはまったく「思い通りにならない」ことです。 人間として生まれるということには、このようなまったき受動性がつきまとっています。それは、まさに苦といわれるべきものでしょう。
 赤ん坊が呱々(ここ)の声を上げるのは、喜びの声というより、むしろ悲しみの呼び声であるという人もおります。しかじかの条件を与えられて、さあこれで生死のかぎりない苦海を渡りなさいと投げ出されたら、泣き叫ぶよりほかに手はないだろうという解釈です。それはあまりにも悲劇的な解釈だといわれるかも知れませんが、
大無量寿経』に
「独り生まれ独り死し、独り去り独り来る」
とありますように、勝手に条件を与えられて、さあひとりで生きて行きなさいと投げ出されるのが生まれるということであるならば、それはやはりむごいことだといわねばならないでしょう。あながちに、それは誇張だとばかりはいえない真実の一面がそこにあります。
 わたしは、もろもろのえんによってうまれます。だ
から「縁生」と申します。では、私はその諸縁によって、一方的に生存の条件を押しつけられているだけなのでしょうか。私は、その条件にまったく受動的に従うだけで、それ以上どうすることもできないのでしょうか。

 
▼「人身受け難し」とは▲
 

ところが、私たちはまた「人身受け難し」という言葉を聞かされています。人間として生まれることは、きわめて希なこと、まさに有り難いことだと教えられています。例えば、『涅槃経(ねはんきょう)』に盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)という喩えがあります。大海に棲(す)む目の見えない亀が、たまたま浮上したときに、海の上を漂っている浮木の孔(あな)に首を入れるという話です。確率でいえば何兆分の一になるのでしょうか。いや兆よりもっと大きい、天文学的な数字になるでしょう。仏に遇うのはそれほど希なことだというのです。同じように、人間に生まれることも、きわめて希なことであるといえましょう。
 これに対して、科学的な現代人は、例えば受胎という現象を取り上げて、次のようにいうでしょう。何億という精子の中でただ一つだけが卵子と結合するのだ、一個の精子が卵子に到達したら、ただちに卵子に膜ができてほかの精子を締め出してしまう、つまり、卵子に到達した精子は、何億という同類の中から選ばれたそれこそエリートなのだ、と。
 もしその卵子と結合したのがほかの精子だったら、私はこのような人間ではなかったかも知れません。私がこのような人間として生まれてきたのは、まことに希なことであるということは、科学的にもいえるでしょう。しかし私は、そこから仏教の科学性を主張しようとは思いません。仏教のいうところは、科学が実証するものとは違うのです。しかし、このことについては、ここではこれ以上ふれません。
 また、輪廻転生(りんねてんしょう)という前提に立てば、この人身受け難しということは理解しやすいでしょう。私は犬か猫、あるいは何かの虫に生まれてくる可能性の方がはるかに大きかったのに、有り難くも人間に生まれてくることができたのだ、というわけです。確かに古代インドの人たちは、それを信じていました。しかし、現代にそれを押しつけることはできません。
 むしろ私は、ここで次のように問いたいのです。もし誕生がまったく受動的なものであるとすれば、人間として生まれた有り難さということと、どのように結びつくのでしょうか。生まれによって決まってしまうものなら、それは少しも有り難いことではないでしょう。そこをどのように考えたらいいのでしょうか。


▼「天上天下唯我独尊」の意味▲ 


その手がかりとして、釈尊の生涯を考えてみましょう。それは、八相成道(はっそうじょうどう)といわれて、広く紹介されています。ここで関係のあるのは、降兜率(ごうとそつ)、入胎(にったい)、降誕(ごうたん)の三相です。降兜率(ごうとそつ)というのは、降兜率にあった前生(ぜんしょう)の釈尊が、白象に乗り、この世に降下するということ、入胎とは、摩耶夫人(まやぶにん)の右脇から入り、その胎に宿ること、降誕とは、摩耶夫人の右脇から生まれ出て、七歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたことです。
 このようなことが実際にあったかどうかは問いません。これによって何がいわれているかを問題にしましょう。するとすぐに想い出すのは、イエスが処女マリアから生まれたというキリスト教の説です。処女が子を生むはずはない、キリスト教は非科学的だという非難は、必ずしも当たりません。釈尊にも同じようなことがいわれています。
 それは、並の人間でない、つまり超人性をいおうとしているのだと考えられるでしょう。
 普通の人間をはるかに超えた方だということを、普通でない生まれ方によって表現しているのだ、というわけです。しかし、ただそれだけの話でしょうか。私は、そこにはもっと深い意味がこめられていると思います。
 釈尊が摩耶夫人からお生まれになりました。しかし、入胎も出胎も普通の仕方ではありません。普通の意味からすれば、釈尊は摩耶夫人からお生まれになったのではないともいえます。釈尊は前から兜率天におられたのであって、ただ、摩耶夫人の胎をかりて、この世にお出ましになっただけだとも考えられます。とすれば、これは、普通の意味では、夫人からお生まれになったのではないことになります。
 つまりここには、「夫人から生まれながら、しかも夫人から生まれたのではない」とでもいうよりほかないような、不思議な事態があるといわねばなりません。
それはどういうことでしょうか。釈尊は例外的なお方というだけではすみません。じつは、私たちにおいてもそのような事態があるのではないでしょうか。 例えば、私は父と母から生まれました。科学的にいえば、父と母の遺伝子によって、私の諸性質は決定されているのです。、父と母を足して二で割ったものでしょうか。そうではありません。私は父の小型でもなく、また母の小型でもありません。それぞれの性質を引き継ぎながら(縁生(えんしょう))、しかも私はほ
かのだれの小型でもない独自の私なのです。
 私の生命は、遠い先祖から引き継がれ、連続しています。しかし、私というものが生まれるということは、この永い連続性の中に一つの切れ目が作られているということです。その連続的な流れの中の一環にすぎないならば、独自な私というものは存在することができません。そこからいえば、私は父母から生まれたのではないといえます。
 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉は、そういう意味に解釈することができるでしょう。
 釈尊はひとり尊いお方です。しかし、釈尊だけでなく、私たちにも「唯我独尊」といえる一面があるのではないでしょうか。


▼父母から生まれて生まれない▲


 例えば、禅では「父母未生(みしょう)以前」などと申します。父母から生まれる前とは何のことでしょう。釈尊はその前に兜率天(とそってん)におられました。その前生については、さまざまな物語が伝えられています。しかし、私が生まれる前に、私は何ものでもありませんでした。どこにもいませんでした。
 そこは釈尊とちがいます。にもかかわらず、私は父母から生まれたのではないという一面をもっています。では、父母未生以前とはどういうことでしょうか。生まれる前の私は、どんな顔をしていたのでしょうか。
 リンカーンは、「三十過ぎたら自分の顔に責任をもて」といったという話があります。三十までは親からもらった顔、責任は親にあるともいえます。しかし、三十過ぎてからの顔は自分の顔で、親のせいにすることはできないのです。人間には、親から決定されながら、しかも決定されないという面もあるのです。それは三十歳以後のことに限りません。生まれたときからそうなのです。誕生とともに、私はほかのだれでもない独自の私として、存在しはじめるのです。 人は、自分誕生に責任をもつことはできません。しかし、人は自分の誕生をよきものとすることができます。生まれてきてよかったといえるようになることはできます。また、そのようにする責任を負っています。なんとなれば、人は父母から生まれながら、しかも父母から生まれたのではないという面をもち、みずから新しく始めることができる、つまり新しく生まれることができるからです。 
 私が生まれるということは、たんに生理的な因果関係によって決定されるということではありません。因果(いんが)の連鎖(れんさ)の中に、決定的な切れ目が入るということです。そこから私は新しく私の人生を始めることができるということです。因果の連鎖(れんさ)(父母から生まれる)という面から見れば、生は苦であります。しかし、連鎖の切れ目(父母から生まれるのではない)という面から見れば、生は喜びであり、この上なく有り難いことなのです。この二面が一つになっているのが、人間の誕生というものです。生苦の中に、大きな喜び、希有な有りがたたさが宿っているのです。父母から「生まれて生まれない」という常識を越えた不思議さが蔵されているのです。それはまた、次のようにいえましょう。 死は一回限りの出来事ですが、その死のために私は死すべきものという性格をもちます。同様に、誕生は一回限りの出来事ですが、それは過ぎ去ったことではなく、私たちに、新しく始める者、新しく自分を生みだしていく者という性格を与えています。私たちは、地獄行きの凡夫でありますが、また生まれる者、浄土に生まれうる者でもあるのです。そのような者として、私たちは、誕生しているのです。私たちが誕生日を祝うのも、私たちがそのように新しく始める者として生まれたことを、つねに忘れないように生きるためではないでしょうか。


 仏教がめざすものは「生老病死」という、人間の苦悩の究極的な解決です。前号では、「生」、そして今号では、「老」、つまり人として生きて行く限り、だれもが例外なく老いてゆくという事実について、現代の老人問題をも視野に入れながら説いていただいています。老いるとは、ただ齢(よわい)を重ねて醜(みにく)く朽(く)ち果ててゆくにすぎないことなのか、美しく老いることはできないのか、老いることにどんな意味を見いだすことができるだろうか―老いるということは、私たちひとりひとりの生き方そのものにかかわる問題であるということ、あらためて私たちの前に明らかにしていただきました。


▼人は皆、いずれ老いる▲


 「老は苦なり」ということは、ほとんど説明を要しないことのように思われます。
 すでに老いた人にとっては、老いはいまいましいもの、不如意なものであります。若い人にとっては、老いは、そんなふうになりたくないものであります。だれしも若くありたいと願っており、年をとりたくないと思っています。ヨボヨボの老人を見ると、口には出さずとも、心の中では気の毒な、かわいそうな人だと思い、時としては一種の侮(あなどり)りの心をいだくのです。
 それだけではありません。わが国でも高齢化が進んでいます。65歳以上の老年人口割合が、七%から十四%に到達した年数を比較してみますと、わが国の二十六年に対して、アメリカは七十年、西ドイツは四十五年、フランスに至っては百三十年ですから、わが国がいかに急速に高齢化社会を迎えるに至ったかが分かります。そして、いまでは世界一の長寿国にまでなってしまいました。 長寿は文明のおかげですから、それはめでたいことでしょう。しかし、めでたいばかりではありません。さまざまの問題が同時に生まれてきました。いわゆる老人問題です。
 個人的には、経済的な問題、身体問題、そして無為や孤独という精神的問題が深刻になりつつあります。 
 社会にとっても、それは大きな問題となっています。老人の扶養とか介護の問題、年金や福祉のための重い負担という問題をかかえることになりました。 しかし、老人というのは、そのようにかわいそうな弱者で、ただ社会福祉が充実すれば、それで問題が解決するということでしょうか。決してそうではありません。老いの問題というのは、老いをいかに生きるか、老いとは何であり、老いにどんな意味があるのか、という宗教なのです。
 釈尊が「老いは苦なり」といわれたとき、おそらく今日の高齢化社会を見通しておられたわけではありますまい。人間の本質的問題として老いを見つめておられたのです。しかも、世界の宗教家の中で老いを取り立てて問題にされたのは、釈尊ひとりであります。
 フランスの女流哲学シャシモーヌ・ボーヴォワールは、その老年論を釈尊の四門出遊(しもんしゅつゆう)の話でもってはじめています。
 「仏陀がまだ悉達太子(しつだつたいし)であったころ…しばしば近所を馬に乗って散策した。最初の外出のとき、彼はひ弱そうで、歯も抜け、しわだらけで、白髪で、腰も曲がり、杖にすがりながら口をもぐもぐさせ、震えているひとりの男に出会った。驚いている彼に、馭者(ぎょしゃ)は、これが老人ですと説明した。〈無知で無力な人間が、若さにつきものの傲慢(ごうまん)さに酔いしれて、老いを見通せないとは、なんという不幸だろう〉太子は叫んだ。〈すみやかに家に帰ろう。だれしもいずれ老人の身になるとしたら、遊びも楽しみも何ほどのことがあろうか〉と」
 これは人間のある限り変わることのない真理です。しかし、それだけでは終わってはならないと思います。私は、この真理を原始経典によりながら、できるだけ現代の状況から肉づけて考えてゆきたいと思います。


▼「老美」という言葉はない▲

 
「なんじ、いやしき〈老い〉よ!いまいましい奴だな。お前は人を醜(みにく)くするのだ。麗(うるわ)しい姿も老いによって粉砕されてしまう」と、『感興(かんきょう)のことば』は語ります。まことに「老醜(ろうしゅう)」という語はあっても、「老美」という語はありません。だから、ある歌人は次のように歌います。


   老醜(ろうしゅう)はありて老美は辞書になし  
    あはれなるかなや老いといふもの


 老醜だけではありません。老いぼれて生き残っていることを老残(ろうざん)といい、古くなってだめになることを老朽(ろうきゅう)といいます。年をとって身心がおとろえることを老衰といい、さらにそれがひどくなると老廃といいます。数え上げればキリのないほど、老いはマイナスのイメージと結びついています。
 それは、「歩んでいても、とどまっていても、人に命は昼夜に過ぎ去り、とどまるところがない―河の水流のようなものである」からでしょうか。人は、自分が望むがままに、そのとおりに生まれることは決してないように、生まれたものは必ず老いなければならないのです。
 「人々の命は昼夜に過ぎ去り、ますます減ってゆく―水の少ないところにいる魚のように、彼らにとって何の楽しみがあろうか」とあるように、人生は下降線をたどらざるをえないのです。その行く先は死であります。
 「生まれたものたちは、死を逃れる道がない。老いに達しては死ぬ。げに生あるものたちの定めは、このとおりである」のです。そこで、人は嘆げからざるをえません。
 「ああ、短いな、人の生命よ、百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ」と『スッタニパータ』は語ります。 同じようなことばはほかにも多く見られます。
 生まれたものには老いがあり、病があります。死んだものは、老いることも病気になることもありません。その意味では、生きることは老いることでもあるともいえるでしょう。病に会い、老いに達し、死の訪れを待つ、それが、人間として生きることです。生まれ、成長し、成熟し、老衰(ろうすい)し、そして死ぬこと、それが生きとし生けるものの免(まぬ)がれがたい法則です。
 だれがこの自然のことわりを否定できましょうか。老いはすべての生物にとってさけることのできない過程であることを忘れてはいけません。老いは、すでに極若いときからはじまり、徐々に進行します。医学は、すでに二十代で動脈硬化のはじまりを指摘することができるといいます。もちろん老化の様態は人によってずいぶん差があります。人は老いに面するときは、まことに不平等なのです。すでに三十にして白髪を頂いている人もおれば、六十にしてもなお黒々とした髪をもつ人もいます。しかし、老いはだれをも容赦しません。それに打ちかというと望んでも甲斐はありません。望みうるのは、せいぜいその進行を遅らせることぐらいです。年には勝てない、といわれるとおりです。



▼ある老賢者のエピソード▲

 
ところが『阿含経』にこんな話があります。
 「遠い昔。棄老国と名づける。老人を棄てる国があった。その国の人々は、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。ところがここに一大事が起きた。それは神が現れて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。
 『ここに二匹の蛇がいる。この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできなければ、この国を滅ぼしてうまう』と。
 王はもとより、宮殿にいるだれひとりとしてそれを見分ける者はいなかった。王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこういった。
 『それは易しいことだ。柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。』
 大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。
 それから神は、次に難しい問題を出したが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、つねにそれを解くことができた。
 それらの答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。そして王は、この智慧がひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。」
 ところで老いのマイナス面ではなくて、そのプラス面が強調されています。「老人の智慧」がたたえられています。昔はそのために、老人は家庭にあっても、地域社会にあっても尊敬され、その地位を認められていました。
 しかし、伝統のこわれつつある社会では、古いしきたりにくわしいことは尊敬の的にはなりません。社会の変動が激しく、能率よく回転してゆくことを目標とするようになるとき、老人はその場を失います。有用性の原理の支配する社会では、老人は軽視されることになります。世間では、定年後の男性を、面白半分に「粗大ゴミ」と呼ぶことになります。しかし、それがほんとうに老いなのでしょうか。先ほどの「老人の智慧」というのは、老年にはそういう効率で計ることのできない独特の価値があるのだ、ということを示してるのではないでしょうか。それを認めないような社会は、いくら福祉を充実しても、やはり棄老国だといわねばならないでしょう。


▼どう老いるのか▲


 老いるということは、ただ人間だけがよくするものであろうと思います。動物は、子孫を残すことを至上命令とし、その能力がなくなったときはほとんどその存在理由を失います。
 しかし、人間は年をとるだけでなく、老いること、すなわち熟すること、生を全うすることができます。人間の老いは、効用性を離れたところで、独自の意味をもちます。人が、「無駄をなくしよう」と合理化に懸命になっているとき、老人の智慧は「無駄を大切にしよう」と語るのです。
 しかし、齢(よわい)を加えるだけでひとりでに智慧が出てくるものではありません。『法句経(ほっくきょう)』に「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。彼の肉は増えるが、彼の智慧は増えない」と示されているとおりです。それはただ、「壊れた弓のように横たわる」だけです。老いるということは、たんに自然現象であるのではなく、まことに主体的な問題なのであります。だから、例えば島崎藤村はいいます。
 「老年は私が達したいと思う理想郷だ。今更私は若くなりたいなぞと望まない。ほんとうに年をとりたいものだと思う。十人の九人までは、年をとらないで萎(しお)れてします。その中でひとりだけがわずかに真の老年に達しうるかと思う。」
 そうです。年をとること、老いることは大仕事なのです。そして、美しき老いを迎えることは、至難の業であろうと思います。多くの人は、ただ長生きせんがために生きているのではないでしょうか。それこそ、いたずらに馬齢(ばれい)を重ねるということでしょう。
 鈴木大拙(だいせつ)は九六歳でなくなりましたが、九十歳を超えたとき、秘書に「九十歳にならんとわからんこともあるんだぞ、長生きをするものだ」といわれらとのことです。尊敬すべき老いの姿というべきでしょう。
 以上、老いの二相をあげました。しかし、そのプラス面はどのように関係しているのでしょうか。また、私たちはどのようにしてそういう老いに達することが出きるでしょうか。それが次の問題です。
 その問題に入る前に、偉大な能役者、能作者の世阿弥(ぜあみ)の言葉を引いておきます。
   


    五十有余
    この年ごろからは、おおかた、何もしないという行き方より外に手立てもあるまい。
    「麒麟も老いては駑馬(どば)に劣る」という諺(ことわざ)もある。しかし、真に能の真髄をきわめた役者なら、
    自分を演じうる演目がつぎつぎに失われ、善かれ悪しかれ見どころが少なくなったとて、花は残るだろう。
    私の父は、五十二歳という年の、五月十九日に亡くなったが、その月の四日に、
    駿府(すんぷ)にある浅間神社(せんげんじんじゃ)の神前で奉納能を演じたことがある。
    この日の能はことにも花やかで、観客は一様に賞(ほ)めたたえたものだ。父はそのころには、
    自分がもっとも得意としていた演目を早々と年若い演者に譲り、楽に演じうる曲を、控え目控え目にあしらって演じたが、
    芸は一段とみごとに見えたのである。これは、真に身についた花があったために、
    枝葉がすくなくなった老木のようになるまでも、その能の花は散らずに残ったのである。
    これはまさしく、老年にもなお保たれる花があることの証拠である。  
                                           (大岡信訳による)



まことに、花も実もある老いのすがたであります。心身ともに健康体を常に維持することで、いつまでも若さを保とうとする努力―中年 といわれる年齢に達したあたりから人はだれでもそう思い、実践しようと望むところです。が、それだけで「老い」の問題は解決できるのでしょうか。今号では、仏教で説かれる「老い」について、さらに本質的な問題に肉薄していただきます。

 前回申しましたように、老いには二つの相があります。一つは、老化というマイナスの相です。醜(みにく)さ、愚かさ、弱さの相であります。もう一つは、円熟や賢さや開放感を伴ったプラスの相です。
 この二つの相は、いったいどういう関係にあるのでしょうか。一般的にいえば、マイナスがあれば、それに対するプラスもある、といってよいかもしれません。しかし、この場合そう簡単には行きません。
 と申しますのは、老化というマイナス面はいやおうなしにやって来ます。それをとめる手だてはありません。しかし、プラスの面はひとりでにやってくるものではないのです。
 世の中には、長らえるために生きている人もいます。ただ年をとるだけで円熟の境地に達するわけではありません。「老いる」ということは、すぐれて主体的なことだという意味がそこにあります。
 つまり、問題は、私たちが老いに対してどういう態度を取り、どういう姿勢で老いに望むかという点に絞られてきます。そこで、私たちがふつう老いに対してとっている態度について考えてみましょう。


◆老いに対する態度◆


 まず第一は、できるだけ老いを認めない、つまりいつまでも若さを固執しようという態度です。自分の地位にしがみつき、自らの若さを少しでも引きのばそうと躍起(やっき)になり、その特権や権力を放そうとしない人はまれではありません。いつかは捨てなければならない活動的な生活を、それにもかかわらず必死に追及するという姿勢です。


 これに対して釈尊は申されるのです。

 「〈私は若い〉と思っていても、死すべきはずの人間は、だれが自らの生命をあてにしてよいだろうか。」
 「〈私はこれをなしとげた、これをしたならばあれをしなければならないだろう〉というふうにあくせくしている人々を、
 老いと死が粉砕する。」



 釈尊は、若さのおごりを戒めておられるのです。だれも、「オレは若い」と思っているうちに年をとってしまったことに気づいた、という経験をお持ちでしょう。しかし、年をとっても、「年の割にはオレは元気だ」と考えます。元気もなくなると、「それでもオレは生きている」と考えるのではないでしょうか。やはり若さにとらわれているのです。若さだけに価値があるのなら、若さを失った老年は無価値となる道理です。そういう人には、真の老年はやってきません。
 かつて釈尊は阿難(あなん)に語られました。
 「阿難よ、私は老い衰えた。老齢すでに八十に及んだ。例えば、阿難よ、古い車は革紐(かわひも)の助けによってやっと動くことができるように、思うに、私の身体も革紐の助けによってやっと動いているようなものだ。」
 釈尊でも老いを免れることはできないのでした。若さに固執することで、老化のマイナスはプラスにはなりません。

 哲学者サルトルは、「老いは他者である」と申しました。その意味は、さしあたり、私の身体が私の意のままにならない不如意(ふにょい)なもの、つまり他者になってゆくということでありましょう。この不如意こそ苦といわれるものです。これまで、自分が身体をもっているなどということはほとんど意識しないで、自由に飛び回っていたのに、いつのまにかままならぬものになってくる、身体は
生老病死「生活の中の仏教」③
エネルギーであることを止めて、ますます重い物質になるといってもいいでしょう。しかし、これは、だれも免れない理法なのです。これを認めようとしないで若さに固執するのは誤りです。
 先にあげましたボーヴォワール女史も、「多くの動物は―例えばかげろうのように―漸次(ぜんじ)衰えるという過程をふまずに、繁殖して死んでゆく」と申しました。つまり、彼女は、文明の進歩によって老年というものがなくなるだろうと考えるのです。生きているうちは元気で、老衰を経験せずに、ある日突然死ぬことを夢みているのです。これは、ポックリ信仰と変わりがありません。


◆レジャーと隠居◆

 
およそ世間でもっとも一般的なのは、老年の空しさをレジャーで埋めるという態度でしょう。年をとっても元気でいたい、やっぱり身体が資本だ、ボケたらおしまいだからといって、ゲートボールにはげんだり、旅行を楽しみにしている老人は多くなっています。身体を大切にし、健康に留意(りゅうい)することはだれにとっても大事なことです。また旅行は、私たちに楽しみを与え、見聞を広めてくれます。
 しかし、ただ気晴らしの楽しみだけでは、老いの空しさを埋めることはできません。私たちは、よく「いつまでもお達者で」と挨拶します。しかし、そこには一種の欺瞞(ぎまん)がかくされてるのです。元気で長生きしさえすれば、それで人生はめでたしめでたしということになるのでしょうか。それで人生を全うした、真の老年に達したとはいえないでしょう。
 もう一つの態度は、隠居(いんきょ)するということでしょう。これまでは世の生業(なりわい)にいそしんできた、今はすっかりそれから身を引いて、悠々自適(ゆうゆうじてき)の優雅な生活を楽しもうというわけです。いわゆる晴耕雨読(せいこううどく)の生活を楽しむ人もいるでしょうし、たっぷりある時間を趣味に費やす人もありましょう。それは、うらやましい老いの生活のようにも思われます。
 しかし、良寛(りょうかん)の歌にこんなのがあります。


     何ごとを営むとしもなけれども
      閑(しず)かにくらす日こそすくなき



 何の屈託(くったく)もなく生きかたに見える良寛でさえ、「閑かにくらす日」は少なかったのです。ことに私たちにとっては、たとい生活に不安がないとしても、時間をもてあますのが関の山ではないでしょうか。
 たしかにレジャーで気晴らしをするよりも、趣味に生きることの方が充実した生活だといえましょう。しかし人生は趣味ではありません。真の老いは何かもっと別のものです。
 そこで敬虔(けいけん)な人は、老いの無力感、剥奪感(はくだつかん)のなかに世の無常を感じ取ります。老いこそ私に無常を知らせてくれる有り難いものだと考えるのです。生理的な能力はどんどん低下して行きます。気分も衰えて行きます。自信も薄れて行きます。その上、親しい人に先立たれ、いっそう孤独感が強くなってきます。
 そのようにすべてのものは私から奪われてゆき、あらゆるものが私を捨ててゆくが、仏の慈悲は絶対に私を捨てたまわないと、仏の想い浄土を想う人もあります。これはレジャーや趣味よりもずっと上等なことです。
 俳人の一茶にもこんな句があります。


   いざさらば死にげいこせん花の雨


 しかし、「死に稽古(けいこ)」は隠居してから、はじめてするものでしょうか。ソクラテスは、哲学は、「死の稽古」であると申しました。それは、できるだけ肉体の繋縛(けばく)を離れて純粋な魂によって物の本質を見る修練のことです。肉体が衰えたからといって、はじめてやる稽古ではありません。
 上述のような信仰の形態には、何となく感傷的な匂いがしますし、場当たり的に仏を思い、浄土を願うのは本当ではありません。
 老いとは、この世のことはすべて諦め、隠居して死の準備をすることではありません。老いの無力感を直ちに仏に結びつけるだけでは、老いのマイナスは本当のプラスにはなりません。その前に、私たちの内的態度の転換がなされなければならないのです。これまでは分からなかった生き方、老いるということによってはじめて知らされるようになった新しい態度、そこに老年の意味があります。では、それはどんな生き方でしょうか。


◆受容◆

 
釈尊はどんな態度を教えておられるのでしょうか。経典(パーリ、増支部)には次のように示されています。

 「この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つは、老いゆく身でありながら、老いないということ…」
 「世のつねの人びとは、この避けがたいことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、
 仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはない。」



 簡単にいえば、老いを受け容(い)れよということです。老いに打ち克(か)つためには、老いに従わなければならない、そして老いを毛嫌いするのではなくて、自分のものとして引き受けなければならないということです。いってしまえば簡単にみえますが、実は、これが大変な難事なのです。
 例えば、老いは客観的には徐々に進行するものですが、主観的には突然としてやって来ます。地獄のエンマ大王はいいます。「お前は年老いて腰を曲げ、杖にすがってヨボヨボしている人を見なかったか。お前はその天使に会いながら、自分も老いてゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになったのだ。」
「明日はわが身」とは思わないで、老いは他人のことだ、と思って私たちは日暮をしています。
 良寛(りょうかん)の歌にもこんなのがあります。


     白雪をよそにのみみてすぐせしが
      まさにわが身に積もりぬるかな
     老いの身のあわれを誰に語らまし
      杖を忘れて帰る夕暮れ



 みずからの老いに突然気づいた驚き、必需品である杖さえも忘れる老いの身に、愕然(がくぜん)としている良寛の姿が目に浮かぶように思われます。
 それだけではありません。みずからの老いに気づいても、なかなかそれを直視しようとしないのが人間であります。二十世紀の知性とまでいわれたヴァレリーは、「老いという恐ろしい事柄について語ってくれ」と頼まれて次のように答えたとのことです。
 「そんなことをいってくれるな。僕もひげを剃るとき以外は鏡を見たことはないよ。」
 それは老いの身をあるがままに見ることへの恐れなのです。自分の老いを率直に受け容れることができないのです。知識人ほどかえってそれは難しいのかもしれません。人間は、真実を求めつつも、つねにその真実から目をそらそうとしているのです。しかし、みずからをありのままに受け容れることなしに、どうして人生の真実に達することができましょうか。
 受容というと、何か消極的だと思われるかもしれません。しかし、それは架空の自分、若いと夢みている自分(人は自分だけは別だとひそかに思っているのです。)ではなしに、現実の老いた自分をみずからに引き受けるという、きわめて積極的な姿勢なのです。別の自分を夢想するのではなく、老いたる現実の私と一枚になるということです。そのように老いを受け容れることによって、私たちは、「憂いも、悲しみも、怒りもなく」静かに、「これまで見たくなかったもの、これまで見ることのできなかったもの」を正面から見られるようになるのです。


◆解放と開花◆


 老いに打ち克つためには、老いを受容しなければなりません。しかし、そのとき何が起こるのでしょうか。
 『スッタ・ニパータ』の冒頭に蛇の章というのがあります。そこの章句には、最後のところに、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」という言葉が繰り返されています。老いの受容のときに、脱皮がはじまると私は考えたいのです。何からの脱皮でしょうか。釈尊は、「この世における見解、伝承の学問、想定や戒律や誓い」を捨てよといわれます。もちろん、老年に限っていわれたことではありません。すべての修行者についていわれたことです。しかしこれは、老年についてとくに有意義な言葉だと思います。
 人は多かれ少なかれ、社会から押しつけられた役割を立派にこなそうと努力してきました。義務とか、理性的な行動とか、技術的な練達とか、人間関係の調整とかは、みなこれを成功させるために不可欠のものでした。それは「この世における見解」であり、世の習いであり、しきたりであり、いわゆる道徳であります。私たちは、多かれ少なかれ自分の本心を押し殺して、生活を営んできました。そうしなければ生活は成り立たないのです。釈尊は、そのようなものから脱皮せよと教えておられるのです。
 生活には成功もあり、失敗もあります。しかし、過去の成功をいつまでも引きずって生きるのでもなく、また、失敗にいつまでもこだわるのでもありません。いわばそれらを突き離して、もう一度人生を見直すのです。と申しますのは、私たちの人生はそのような生活に尽きるものではないのです。この表だった生活ではどうしても満たされない人間の深い願いがあるのです。生活から人生への脱皮といってもよいでしょう。
 「人生の前半の課題は挑戦であり、後半の課題は別離である」ともいわれます。そうです。老いるということは世に背を向けることなく、世の絆を断ってゆくことです。人生の黄昏(たそがれ)を人生の明け方と同じように生きることはできません。人生にはそれぞれ時期があり、またそれぞれの生き方があります。
 心理学者ユングは申しました。「老いたくないという願望は、子供時代から離れたくないというのと同じく馬鹿げている。人生の正午に外に見いだすものを、人間は午後には内に見出さなければならない。そのための時間を老年の静かな状態が提供する。」
 ここから、いわゆる生活とはまったく違ったものが始まります。そのためには、人間の内的態度の転換、つまり脱皮がなくてはなりません。それを生活から人生へ、あるいは行動から存在への移行と呼んでもいいかと思います。仏教でいう無為(むい)とか放下(ほうげ)という言葉も、これと無縁ではありますまい。何かをためすことによってはじめて価値を生ずるのではなくて、ただ存在するだけで、そして存在の声に耳を傾けるだけで十分に意味があるということです。
 「この世における見解、伝承の学問」そしてこの世のしきたりなどから脱皮するところに、もう一つ深い別の次元が姿をあらわします。人生はもっと違ったふうに見えてくるでしょう。明け方に真理があったものが、夕方には偽りになることもありましょう。私たちは、より深い人生の相に目を開かされます。より広い、とらわれのない視野からものを見ることができます。
 それはこれまでの生活が無意味だったということではありません。かえって過去の生活へのとらわれからの解放を意味します。そして、よりいっそう開かれた地平にみずからを開く開花を意味します。そのような次元に身を置いておられたからこそ、八五歳の聖人の「目も見えず候」というお言葉も、かえって一種のすがすがしさを与えるです。そして、そこに目を開かれたものは、どんなささやかな、そして平凡な人生でも、意味ある人生だったと肯定することができるのです。ここに真の老年があるというべきでしょう。老年は、たんに老後とか余生というような消極的な意味のものではないのです。
 ただし、それまでに人生の意味を探ろうとしなかった人には、これはおぼつかないことであります。賢者は、「老年の欠乏(けつぼう)を補うに足ものを、青年時代に獲得しておけ」と申しました。「仏法は若きときにたしなめ」といわれたのは、蓮如(れんにょ)聖人であります。その意味では、老年は若い時の果実です。



 幼子の寝顔を見ているだけで、思わず体がジーンと熱くなりようないつくしみの気持、そういうものが子供を育てるのですね。病人の場合も同じではないでしょうか―佐藤先生が原稿を編集室にお届けくださったときのお話です。近代医学の驚異的な進歩は、私たちにさまざまな恩恵をもたらしました。しかしそれによって失われた大切なものもあります。今号から病をめぐる今日的な問題をふまえつつ、仏教と病のかかわりを探っていただきます。さて世尊が鍛冶(かじ)工チェンダの食物を食べられたとき、重い病が起こり、赤い血が迸(ほとばし)り出る、死に至らんとするはげしい苦痛が生じた。尊師は実に正しくおもい、気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。」
 これは仏伝にある釈尊の病の記述であります。釈尊でさえも病の苦しみを免れないのだとすれば私たちが病に苦しむのは当然のことでしょう。病苦は、ほとんど自明のことだと思われます。しかし、少し考えてみますと、いろいろな疑問が浮かんできます。
 チェンダがもっと気をつけていたら、釈尊は病気にならなかった、そして死ぬこともなかったのでしょうか。老いというものは止めようがありません。しかし病気は、それほど必然的でないようにも思われます。先日友人からこんな挨拶状を受け取りました。「母は九十九歳、病なくして亡くなりました。」これが本当だとすれば、病気をせずに死に至るということが可能であるということになります。人は、たまたま病気になるのであって、病は避けることのできない人間の条件ではない、ということなのでしょうか。
 しかし、老化ということが避け難いものであり、それも一種の病であるとすれば、病はやはり不可避な人間の条件ということになりましょう。さらに、病が死につながっていなければ、それほど深刻な問題ではありません。もしかすると、人は病気になって死ぬのではなくて、死すべき存在であるから病気になるのではないでしょうか。病は老と死の間にあって、どちらにもつながっていきます。そのせいでしょうか、原始経典には病について記述は多くないのです。そこで、老について考えてきたような仕方で、さらに死をも見通して、病について考えてみたいと思います。


◆病気は医者に◆


 病気のことは医者に相談せよ、というのが私たちの常識です。だれでも、病気になったら医者にかかります。病気になったからといってお寺へ来る人はありません。病気を治すという宗教もありますが、それはまともな宗教ではないと、私たちは考えます。それは迷信とか邪教(じゃきょう)だとも考えられます。何ら科学的な根拠なしに、あやしげな方法で病気を治そうというのは、とても信用できない、病気は科学的な近代医学の手に委(ゆだ)ねるべきだ、というのが私たちの常識であります。しかし、そうすると宗教は病気にかかわりがないということにならないでしょうか。
 たしかに宗教は直接病気を治すものではありません。しかし、体のことは医者に、心のことは宗教家にということが正しいといえるでしょうか。人間をそのように簡単に二分することはできません。肉体の一分が病(や)んでいるのであって、心はそれとは無関係だとはいえないでしょう。歯が一本痛くても、私の全体はそのために痛むのです。ただ、その一部分だけが痛いのではありません。痛みは身体の一部で起こっているのではなくて、私の存在の全体がそのために調子を狂わせている、つまり病んでいるのです。
 ですから、体のほうは医者に、心のほうは宗教家に、という分業は妥当(だとう)であるとはいえないのです。そして、人間を心身に二分することも、正しいとはいえません。
 病気とは気を病むことだ、と俗にいわれますように、そして身心症という病気がありますように、心と体は密接に結びついています。人間は心身の不可分な統一体であると考えねばならないと思います。
 もっとも原始経典の中には、次のような身体観もあります。「種々雑多の汚物で充満した大糞器、どろどろの沼のような大腫、大瘡であり、膿血で充満し、糞坑のなかに沈んだ身体は、汚水を滲(にじ)み出し、つねに腐った水を流出する。」
 これは、修行僧が、肉体の無常を観ずることによって、煩悩のとらわれから離れようとしたものでしょう。ですから、「私は身体を嫌厭し、生存になんらの欲念もない。この身体は破壊され、さらに他の身体をとることもないであろう」ともいわれるのです。この立場からすれば、身体に気をつかい、病気にこだわるのは迷い事であるということになりましょう。このような考え方は、それなりの意味をもってはいますが、少なくとも私たちは、もはやそのように肉体を極端に軽視するような身体観について行くことはできないと思います。釈尊も苦行をしりぞけられました。いたずらに身体を軽視するのは正しいことだとは思いません。
 仏教は心身の二元論の上に立つものではありません。心身脱落という言葉もあります。ですから、肉体は滅びても霊魂は不滅である。という説も説かれないのであります。
 では仏教はどのように病気とかかわるのでしょうか。いや、どのように病気の人にかかわるのでしょうか。
 キリスト教では、イエスがしばしば病気を治したという奇跡が聖書に語られています。例えば、三八年間病気で悩んでいた人に、イエスが「起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」といったとき、その人はすぐにいやされ、床をあげて歩いていったというのです。キリスト教で、これをどのように解釈するのかはさておき、釈尊についてはそのような話は聞きません。それは、釈尊が病気の人に対して冷淡であったということを意味するものではありません。韋提希夫人の請いを聞きいれて、大事な説法をさしおいて直ちに夫人のもとへ赴かれたのが釈尊です。そして、仏のことを医王とも申します。病をなすために法という薬を与えるものという意味です。そして人間は、何らかの意味でみな病んでいるのです。


◆治療と介護◆


 大昔には病気は人間にとって大変な危機を意味していました。未開民族にとっては、外的な負傷は予期されない災害であるために、悪霊の仕業であるとか、だれかの呪いの所為だと考えられました。内的な疾患は、その原因がいっそう不明であるため、神霊のたたりであるとか、魔物が体内に入ったものとか考えられました。そして、それを抜き取り追い出す呪術的な方法が講じられました。病気平癒(へいゆ)は彼らの宗教生活の大きな部分を占めていました。そのような悪魔祓いをする人、つまりまじない師のことをメディシン・マンと呼びます。メディシンというのは医術のことですから、ここでは宗教と医術、宗教家と医者は重なっていたのです。呪医は祭司の前身であり、医術と宗教、ここに呪術と結びついていたのです。 
 それはかなり文明が進んでからでも、明白な分界をもたず、今に至るまでの民間の風習の中に残存しています。
 そのように見ますと、宗教が病気とのかかわりから離れたのは、医学が発達したからだと思われます。病気に対する近代医学の勝利にはめざましいものがあります。かつて人類を脅かしたペストとか天然痘(てんねんとう)は、悪霊の仕業ではなくて、病原菌やウイルスによるものであることが明らかにされ、地球上から一掃されたのです。ことに、最近人々の平均寿命がいちじるしく延びたのは、まさに病気に対する革命的といってもよいほどの勝利であります。
 しかし、その反面それによって失ったものもまた大きかったのではないか、というのが最近の反省であります。失われたものというのは何でしょうか。その一つは、病気を見ることに専念するあまり、人間を見るまなざしを忘れてしまったということです。そこに見られるのは、病気の人ではなくて、故障のある肉体だけなのです。人間に対するまなざしが、ヒトの体へのまなざしに移ったのが、近代医学の特徴です。
 あるいは、部分にのみ関心を集中して、全体を見ない傾向があるということです。近代医学は、病気を局在化し、その病因を求め、その除去に関心を集中します。しかし、人間は部分と全体が微妙に結合した有機体ですから、部分を治しただけで、直ちに全体が治るとは限らないのです。自動車の部品を取り換えるようなわけにはいかないのです。その部分が全体にどのように結びついているのかを、私たちは正確には知らないのです。
 作家の重兼芳子は、少女のころ股関節脱臼を患いました。ある日十六歳の少女が、大勢のインターンの前でショートパンツになり、歩いてみろ、飛んでみろ、足を広げてみろといわれたのです。羞恥(しゅうち)と混乱で何が何だか分からない状態であったのが、「気がつきましたときには、股関節脱臼が手遅れになってこじれた症例として、私が学用患者としてそこに引き出されていたのです。その教授は、私を股関節脱臼だと思って見ているのです。股関節脱臼を持った無垢(むく)な少女だと見てくださらなかったのです。」と彼女は述懐しています。
 同室の患者は背骨の曲がっているのを治すために、お腹を切って、背骨の手術をしたら、背骨の法は真っ直ぐになったが、腸がむちゃくちゃに癒着(ゆちゃく)したというのです。腸閉塞(ちょうへいそく)を起こして死にかけ、輸血をしたら血清肝炎になってからだ全体が崩れてしまったともいっています。もちろん彼女は、「決して医学が悪いとかと言っているのではなくて、やはり私がいつか体験しました、部分だけを見る矛盾なのです。」とつけ加えています。 
 いわゆる病原菌とかウイルスなどという、人間の臓器のアンバランス、いわば人間の内から出てくる病気に対しては、それほど目ざましい成功は収めておりません。
 なぜでしょうか。近代医学は因果論にもとづく疾病観に立っています。疾病の原因を特定しその除去につとめるという行き方です。  
 しかし、そういう形では捉えられない複雑な病気が増えているのです。成人病もその一つでしょう。極論すれば、生きた人間というものは、単純な因果論では捉えきれないということです。病気には身体的な原因ばかりではなく、精神的な要因、さらに環境的なファクターなどが、相互にからみ合っています。 仏教でいう縁起の考え方が、ここで思い起こされます。単純な因果論ではなく、相互関連性が重視されなければなりません。さしあたり、人がそこに生きている日常の世界とのつながりが問題です。


◆日常の世界◆


 さきの重兼はそれについて重要な指摘をしています。「入院というのは、日常性から脱却して非日常の世界に入ることです。私ども患者は、日常性からポット一人だけピック・アップされて、病院のベッドの中で非日常の世界を持つことです。」
 病気の治療のために一番自然な環境は家庭です。そこで人が毎日生きている場所で治療するのが最善でしょう。そこでは、何とか病気を楽にしてやりたい、慰めてやりたいという切実な思いが、自然に湧き出てくるでしょう。それぞれの善意が病気の治癒に有効にはたらくでしょう。しかし、今や病人は家庭から離され、非日常的な病院という世界に入れられます。そして、「自分は病人だから、かわいそうな人だ。手術をしたのだから、大変気の毒な存在だと、自分で自分を哀れみ、自分を甘やかすというのか、かわいそがっている非日常の世界にどっぷりと漬かっている」ということになります。
 病院というのは、近代社会のヨシとする合理性の上にできた制度です。つまり、患者集中方式が合理的だという考え方に立っています。ところが、患者の背負っている生活は、それぞれ異なりますし、同じ病名であっても、病気はそれぞれ個別的です。そもそも、「人間というものはやたら個体差が大きい」ものだと、中川米造はいっています。なるほど、技術的には病院のほうがはるかに合理的でありましょう。しかし、いまいったような個体的な事実に、十分な配慮はなされません。
 中川によれば、「病院の中にいるのは、病人ではなくて病気を持った体」なのです。技術的には最先端を行っていても、病人自身は無視されるような結果になりかねません。そして、当人も「病院に入れられたのだから自分は病人なのだ、かわいそうな病人なのだ」と思い始めます。まったく受動的に治療を受けるだけで、「がんばってリハビリテーションを受けなくても自分を許し、病人だから、かわいそうだからこのへんでやめておこうという気になる」のです。それこそ本当の病人になってしまいます。病院という合理的な制度が、かえって病人を作り出しているという一面も否定できないと思います。
 もちろん、私は病院を否定しようというのではありません。お産をするのに助産婦さんを頼む人は、もういないでしょう。だれでも病院でお産をします。技術的には病院のほうがうんとすぐれており、安全性も高いことはいうまでもありません。しかし、ふだんからなじみであり、家庭の事情もよく心得ており、さらにみずからもお産の経験者である助産婦さんの助けによって、家族のはげましの中で子を生む方が、はるかに人間的だとはいえないでしょうか。お産は病気ではありません。しかし、日常の世界から隔離されるということが何を意味するかが、これによってある程度明らかになったかと思います。


◆鬼手仏心◆


 そのことを科学史家の伊藤俊太郎は次のようにいっています。
 「病気になって病院を訪れたとき、医者はさまざまの器械によって検査し診断するが、そこには数字によって表される抽象的な量の測定はあっても、病む人の具体的な痛みや、悩みはどこにもない。これらは科学と生活世界のギャップを示すものであるが、そのときわれわれは前者の方が何か確実で第一次的なものであり、後者はそれに従属する第二次的なものと考え、いわば科学が生活世界を抑圧してしまうのである。
 だがしかし、われわれは思い起こそう。われわれが生きているのは、この感性的な質を持った現実の生活世界であり、ここに人間のあらゆる生の原点があることを。もし科学が生活世界を破壊するならば、改めなければならないのは科学の側である。…生活世界の第一次性に定着し、そこから科学を評価し、批判し、教導しなければならない。」
 病院での検査を経験した人は多いと思います。その際医者は、医療機器を駆使し、そのデータを処理する一種の技術者に似ています。そこから客観的な情報は得られるでしょうか。それが唯一確実なことであるといえるでしょうか。 日常の世界(生活世界)は、何よりも私にとっての世界、私にとって意味のある、私の直接経験の世界です。そういう世界と交わることのない客観的情報は、唯一絶対のものとはいえません。助産婦さんは日常の世界に属しています。みずからお産の経験をもち、したがってその痛みも悩みも知っています。医者の客観的な知も一種の経験知でありますが、助産婦の場合のように、自己経験ではありません。
 助産婦の持っているような、肌にふれる直接性は、そこにはありません。つまり、医者と患者の間には、例えば検査という厚い壁が出来ています。手当というのは、文字どおり直接手を当てることです。ところが、実際は医療からぬくもりのある直接性は排除されて、いわばガラス越しにマジックハンドで接しているようなもどかしさを感じざるをえないのです。
 ここに近代医療において失われたものがあります。輝かしい成功に伴う影の部分であります。技術的なタイプの医療に欠けているもの、それは助産婦的な世話です。助産婦という言葉が表しているように、それは病気の人の世話であり人間的な援助であります。輝かしい技術成功は、はしなくもその影の部分をも際立たせました。そこに光をもたらすのだ宗教です。
 医療は真に人間的な医療であるために、そのことを要求しています。宗教を追放した合理主義は、再び宗教を求めざるをえないのです。鬼手は仏心を伴わねばなりません。
 ここまで来て、仏教が病にかかる場が見いだされたと思います。


 病ということについて、深く考えをめぐらせたことがあるでしょうか。五回目を迎えた「生老病死―生活の中の仏教講座」では、私たちが病におちいったとき、いったいどのようにその病と対面し、つき合っていくのかということを、筆者の佐藤三千雄先生とじっくり考えてみたいと思います。

 前回は病気を医療の面から、ことにそれに対する仏教のかかわりについて考えました。
 今回は、病む人の立場から病について考えたいと思います。もっとも、ふつうの軽い病気は大した問題ではないとも考えられます。
 発達した現代医学のおかげで、そういう病気にはほとんど心配しなくてもいいという状況になりました。一時的な病気、治ることが分かっている病気は、大して問題ではありません。問題は重い病気です。そして、今日でもほとんど治らない病気もあります。そのような場合、人はどんな状況の中に置かれるのでしょうか。
 病むということは、生の一つの形態であります。死んだ人は、もはや病むことはありません。生きているから病気になるのです。生きている限り、私たちは病の危険にさらされています。そして、病むということは、病気を生きてゆくということ、つまり、病気とつき合ってゆくということであります。
 しかし、病気とつき合ってゆくということは大変なことです。むしろ、それは危機的状況だというべきでしょう。
 これまで思いのままにして来た自分の生活が、ままならぬものになってしまった、それどころか、何ものかによってままにされているという状況です。もちろん、その原因がはっきりしている場合もあります。酒を飲み過ぎて肝臓を悪くしたというような場合は、自業自得だとしてあきらめもつくかも知れません。医学的にいえば、病気には何らかの原因があるはずです。そして、その原因はみずから播いた種であるともいえるでしょう。そういう種類の病気はたしかにあります。  
 しかし、それは病気の一面です。原因のはっきりしない病気もたくさんあります。当人にとっては、ほとんど理由もなしに何ものかに襲われている、自ら選んだわけではないのに、あるいは、自らそれらしい原因を作ったわけではないのに、苦境に投げ込まれているというのが、病気のもう一つの面であります。
 人はそこに一種いいようのない不条理を感じるでしょう。真面目に人生を渡ってきたのに、なぜこんな目に遭わなければならないのかとも思います。人生には、いろいろ理屈に合わないこともありますが、この病気こそその最たるものだとも思われます。それに抵抗しようとしても、すでに自分は何ものかの手に引き渡されていて、どうすることもできないという感じです。かくして、病む人は深い無力感にさいなまれます。しかも、誰も自分を助けてはくれません。私に代わって病気を引き受けてくれる人はいないのです。人は底知れぬ孤独感に陥ります。
 例えば、遠藤周作は自らの体験を次のように述べています。  
 「…三回手術を受けたけれど、一回目はそうでもなかったのに、三回目の時は痛くてハサミを突っ込まれたような感じで、モルヒネを打ってもすぐ切れてしまうんです。さすってくれっ、とか水をくれっ、と思わず叫んでいました。
…そのとき看護婦は手を握ってくれたんですよ。私が痛くて思わず手をぐっと握ると、相手もぐっと握るんです。すると変なもんで、この人はオレの痛みをわかってくれるんだと思うとね、痛みがおさまるんです。心理的に鎮まるんです。痛い、痛いよう、と思っていたのがだんだんおさまっていく感じなんです。」 どんな痛みにも孤独感が含まれていることがわかった、と彼はいっています。肉体的な苦痛も、「この苦しみは誰にもわからん、オレ一人で苦しんでいるんだというふうに思う」から、いっそう耐え難いものになります。 
 孤独感や無力感は、やがて絶望感に達します。病気は自分の人生を否定し、無意味と化するものと感じられます。もはや、生きる意味さえ見いだせないまでになるのです。
 曽野綾子は眼を患った経験から、次のように語ります。
 「視力を失った場合、私は生きていられるかどうかわからないと、今でも思うときがある。私は明らかに生きることより死を望む日か何日もあった。そして最近ではそのような危機を超えて来た方々に、私は何度か心ない質問をするようになった。
 『眼がだめだとわかった時、どうなさいました?』一人の方は、主治医もろとも爆死するつもりで、何とか爆薬を手に入れようと考えていた、という。そこにはもはやその世の善悪はないのである。」
 生きながら永遠の闇に閉じこめられるところには、もはやこの世の掟はない、というほどの痛ましい絶望感がそこにあります。
 「しかし、多くの人々は、この暗黒を乗り越えて、魂の明るみに達するという、信じがたい偉業を成し遂げている。
 『何とか危機から脱出した、とお思いになるまで、どれだけおかかりになりました?』
とも私は質問した。『三年、かかりましょうね。』三年か!その一刻一刻、一日一日が何と重いことか、私には想像がつく。」
 三年たてば、悲しみも痛みも忘れるものだという意味にとってはなりません。 その三年間の体験は、私たちのうかがい知ることの出来ないほど深いものではないでしょうか。眼が見えなくなって、かえって観ることができるようになるものもあるのではないでしょうか。 
 しかし、そういう場合に自分はどうするだろう、と考えると自信はありません。私は遠藤周作と同じように、「ガンになっても、最後までガンと言わずに騙(だま)してくださいよ」と、いいたいほうなんです。一日一日、一刻一刻の重苦しい時間を見事に生き抜いていけるという自信はありません。しかし、とても人間業とも思えないこの偉業を見事にやってのけた人は少なくないのです。ということは、実はそこに人間以上の力がはたらいていたに違いないのであります。あるいは、私はそのような力をあてにしてもいいのだと思います。私は一人苦しんでいるのではないのです。


◆なぜ私が?◆



 ふつう治りにくい病気に見舞われたとき、人はどんなふうに考えるでしょうか。おそらく、「なぜ私がこんな病気にならなければならないのか」ということでしょう。医学的に因果関係も、感染のプロセスもよくわかっている場合でも、「なぜ私が」という問いは残ります。  
 戦争中に学徒動員にかかった私は、フィリピン島にやられ、マラリヤにもかかりました。そんな時、現地のある婦人がこう訴えました。「マラリヤが蚊によって媒介されることは知っている。しかし、その蚊が、なぜほかの子でなくてうちの子を刺したのかが分からない」まさにその通りです。医学的な因果関係は分かっていても、なぜそれがまさに私の身の上に起こったのかは分かりません。つまり、病にはそのような意味で運命的ともいうべき性格があります。だから人は、病魔におかされるといいます。そして、この不条理に対して「何の因縁こんな病気になったのか」と問います。難病にかかった婦人は、病院のベッドの上で主人に問いかけます。「パパ、私何か悪いことしたのかしら。私、何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに苦しまなくてはいけないの。何でこんなに痛むの、パパ、どうしてなの?」
 『観経』の中に、「王舎城(おうしゃじょう)の悲劇」といわれるお話が出てきます。王舎城の王子阿闍世(あじゃせ)は大婆達多(だいばだった)にそそのかされ、父王を幽閉して自ら王とならんとしました。同じく宮殿の奥深くに閉じこめられた韋提希夫人(いだいけぶにん)も、次のように問いました。「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊またなんらの因縁ましましてか大婆達多(だいばだった)とともに眷属(けんぞく)たる」韋提希夫人(いだいけぶにん)は病気ではありませんが、その苦境から発する悲痛な問いは、先の婦人のと同じです。
 これに対して、世尊はそのよって来る因縁を説かれたのでしょうか。そうではありません。世尊は、韋提希夫人(いだいけぶにん)に清浄な仏の世界を観させたもうたのです。そしてその時、韋提希夫人(いだいけぶにん)は、「われいま極楽世界の阿弥陀仏の所(みもと)に生ぜんことを楽(ねが)ふ。ただ願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに生受を教へたまへ」というのです。
 ここに大きな転換があります。なんの因縁あって私はこのような病の床に伏せていなければならないのかと、過去へ向けて思いを巡らすのではなくて、これをどのように正しく受けとめ(正受)、どのように考えるべきか(思惟)と、いわば前向きに問うのです。これが病に対する基本姿勢であるといえましょう。信仰は病に超然(ちょうぜん)としていることではなくて、むしろ病を見据えて、それば人間存在にとって何であるかを明らかにするものであります。


◆病の不思議さ◆


 病は外から人を襲う病魔という性格と、内に根ざす自業自得的な性格の両方をもっています。どこまでが内で、どこらかが外かを判断することは、ほとんど不可能です。そこに病の不思議さがあります。その不思議さは、私たちが病に対してどういう態度をとるかによって、病の意味が変わってくるところにも現れます。
 例えば、医師にして歌人であった上田三四二は自ら大病を患った経験から、次のような感懐(かんかい)をもらしています。  
 「私は十五年前に大きな病気をした。…生き返ったとき私は四二歳だった。まだ為たいこともたくさんあり、自分ほど不運な男はないと思ったりもしたものだが、後になってみると、病気が私に与えてくれた恩恵ははかりがたいものであった。私はそれを教訓と呼ばずに恩恵と呼びたい。」
 その恩恵の一つに「いたわりを学んだ」ことをあげています。人生に対する不信の態度からすれば、病気になった自分ほど不運な男はないことになります。 しかし、人生に対する基本的な信の態度からすれば、その病気も恩恵を与えるものとなりうるのです。 
 病は不思議なものです。そして、先に病魔ということを申しましたが、その「魔」にも不思議な性格があります。
 『唯摩経(ゆいまきょう)』の「不可思議解脱(げだつ)を説く」という第五章の二十節で、唯摩は大迦(だいか)葉(しょう)に次のように語ります。
 「大徳よ、あらゆる魔が十方の無数の世界において魔事に従っているが、彼らはすべてまた、不可思議解脱にある菩薩なのです。方便に巧みなので、衆生を成熟させるために魔事を行っているのです。」
 世に中にはいろいろの魔事があります。もちろん病もその一つです。しかし、魔事を行っている彼らは、本当は不可思議解脱にある菩薩なのです。衆生を育てて、自分で気がつき分かってゆくような状態にしてゆく、つまり、成熟させてゆくために、わざと魔的なものを示している、それが巧みな方便なのだ、というのであります。
 まさに不思議な話でありますが、これまでの考察からすれば一応の理解は出来ます。病はたしかに悪いもの、魔事に違いありません。しかし、悪いばかりではなくて、それを機縁として成熟することもできるのだ、ということでしょう。先の上田氏が一つの実例です。
 長尾先生によりますと、「魔」はマーラといって、インド的な存在。とくに仏教的な存在です。「仏教の魔というのは、単に悪いだけでなくて、時には改心したりもするような存在である。」のです。中国にはこのような観念がなく、鬼という字は古くからありましたが、魔という字は、マーラの音を写すために、麻(マ)に鬼をくっつけて新しく作ったもののようです。
 魔事に従っているのが不可思議解脱にある菩薩だとすれば、その魔事に善と悪の二重性格があっても、少しも不思議ではないと考えられます。そして、いくらかでも病の不思議さが分かるということは、人間存在の不可思議さが分かるということです。それが分かるということは、すでに人間をこえた力、不可思議なものの力がはたらいているということです。


◆死の予感◆


 「老いは死の予感である」という人がいます。同じように、「病は死の予感である」ともいえるのではないでしょうか。
 例えば、『歎異抄(たんにしょう)』にありますように、「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」のです。病において私たちを悩ますものは、結局は死から由来しているのです。病において経験する孤独感は、死においてもっとも深刻であります。不条理性についても、無意味性についても同様です。
 前に、人は病気になって死ぬのではなくて、死すべき存在であるから病気になるのだと申しました。その意味は、およそおわかりいただけたかと思います。 夏目漱石は、いわゆる「修善寺の大患」のことを書いた『思い出す事など』の中で、吐血(とけつ)直後に彼を襲った三十分間の意識の途絶を、教えられるまで知らずにいたことの気味悪さを語っています。そこでは時間が厚みを失って紙のように薄くなっていたのです。目がさめなければ、それこそ永遠の眠りです。途中で目がさめれば、永遠の眠りも一瞬としか思われなかったでしょう。
 上田氏は、「このことは、死とは時間の消滅だという、誰でも知っているが実感することがないのでその恐ろしさに気づかないでいる事実を鮮やかに目の前に描いて見せてくれる」といっています。私たちがなんの疑問も抱かずに過ごしている時間、生きるとは身をもって時間を生きることだということを、改めて病は知らせてくれるのです。
 人は生きている限り病の危機にさらされています。ということは、人はたまたま病気になるというよりも、幸いにも生きているというべきでしょう。素まり、生かされて生きているのであります。病は死の予告だということは、悲観的な見方をあらわしているのではなくて、生かされて生きる喜びと有り難さをも表しています。


 「死にかけた」「命びろいした」という人はいても、「死んだことがある」という人は、いません。それだけにいっそう、私たちにとって遠い存在である「死」について、今号を含めて二回にわたり、佐藤先生に論じていただき、「生老病死」という、仏教のもっとも大きなテーマをしめくくっていただきます。 
もう二十年余りも前のことのなりますが、私は日本の宗教事情を視察に来た外国人を案内したことがあります。その意図を聞いてみますと、日本人は自然を愛する民族で、自然との調和の中で近代化を進めてきた、その根底には仏教の思想が与(あずか)って力があったと思う。仏教の自然観について知りたいというのが、その一つであるというのです。
 もう一つの意図は、死の問題だというのです。仏教は「生死をあきらめる」ことをテーマとしてきた宗教である、現代において仏教は死についてどう考えているかを知りたい、というのです。
 私は、ショックを受けました。それまであまり考えたことがなくて、自然についても死についても、はっきり答える準備はできていませんでした。往生浄土というのは真宗の基本ですが、私たちは、往生について論じながら、死そのものについてはほとんど常識的な理解に終わっているのではないでしょうか。虚(きょ)をつかれたような気がしまして、それ以後、心にかけているのですが、不敏な私には依然として分からないことの方が多いのであります。死について語るのは難しいことです。


◇死という現象◇ 


 「ああ、この身はまもなく地上に横たわるであろう、―意識を失い、無用の木片のように、投げすてられて。」『法句経』には、そのように言われています。これは誰にも分かっている事実であります。「最後はしかばね」、これは誰にも否定できない事実です。
 「生あるものは必ず死に帰す」というのは、厳然たる自然の理法であります。しかしこれが死という現象のすべてではありません。と申しますのは、「すべてのものは死ぬ」という時、たいていの場合、その「すべて」のなかに自分は入っていません。蓮如上人の『御文章』には、「われや先、人や先」とありますが、ふつう私たちは「人やさき、人やさき」としか見ていないのです。自分にかかわりのない時には、「生者必滅(しょうじゃひつめつ)」といってすましておれましょう。あたかも万有引力の法則のように。確かに私たちは死ななければならないことを知っています。しかし、私たちは本当にそのことを信じてはいないのです。ガン病棟にいる人でも、「自分だけはガンではない」と思っているといいます。死刑囚も最後の瞬間まで、特赦(とくしゃ)があるかも知れないと期待しているのだと言われます。私たちとて同じです。その意味で、死は私にとって最も無縁なものといってよいでしょう。
 ところが、その死は同時に私にもっとも固有のものなのです。本当に死ぬのは私だけなのです。死はさまざまの出来事のうちの一つではないのです。私は、あれをしてこれをして、それからまた死ぬ―のではありません。孫悟空がどこまで飛んでいっても、お釈迦様の掌(てのひら)のなかであったように、私たちのあらゆる活動も死という絆のなかで営まれているのです。
 ある人はこう言っています。
 「ちょうど五十歳のころ、私は自分自身の革命を果たした。あるいは、革命が私自身のなかに起こったという方がよい。その時より以前にも、私は死を考えぬわけではなかった。
 だが、みなと同じで、生を通じて、通路の端にあるものとして、死を見ていた。その日すべてが急変したことに私は気づいた。生が、私の生の残りの部分がそれ以後は死を通じてしか見られなくなった。」
 五十歳にならなければそれが分からない、ということではありません。「若い人も、壮年の人も―愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべてのものは必ず死に至る」(スッタ・ニパータ)。これは単に客観的な法則を言明したものではありません。「彼らは死に促されて、あの世に去ってゆく。しかし、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない」(同)のだから、自らそのことを心に銘じて生きよ、と教えているのです。
 「死のことなんか一度も本気で考えたことはない。」という人は、死を賭(と)して生きるというような真剣さを知らなかったということでしょう。 
 死という現象は、私にもっとも無縁で、しかももっとも固有のものである、もっとも遠くてもっとも近いものである、という不思議な性格が、死について語ることを困難にしています。さらに、私たちはあらゆることを経験することができるとしても、死だけは経験することができません。そのことがしについて語ることを、いっそう困難にしています。
 いわば、死は二つの顔をもっています。一つの顔は私たちの方を向いています。呼吸が止まる、心臓が止まる、意識がなくなる、というような現象です。しかし、死はもう一つの顔をもっています。それは月の裏側のように、決して私たちの方に顔を向けません。どれはいつまでも秘められたままであるのではないかと思われます。理性や科学の及ばない不可思議の方へ向けられているのです。生まれることの不思議と、それはどこかでつながっているのかも知れません。


◇死の変化◇


「人は死なねばならぬ」というのは、不変の真理であります。それは今も昔も変わりません。しかし、死をどのように考えるか、死に対してどのような態度を取れるかは、必ずしも同じではありません。その意味で、死は歴史的社会的に変化するのです。その変化の相をも視野に入れて死のことを考えなければならないと思います。
 一例をあげて見ましょう。平均寿命が飛躍的に延びました。その結果、死はたえず人間を脅かす最大の問題ではなくなったかのように思われます。つまり、人は病と死をできるだけ遠くへ押しやろうとしている、そしてそれが可能であるかのように錯覚しているのではないでしょうか。いささか皮肉を申しますと、ただ生き長らえるために生きているという人が多くなったのではないかと思われます。そのような生にどんな意味があるのでしょうか。死の影が薄らぐとともに、生の姿もあいまいになるのではないでしょうか。
 人の死のことは放置して、とにかく元気に生きようとします。終(しまい)いにうまく行かなくなると、できるだけ速やかに、できるだけ苦しまずに、そこを通り抜けようとします。
 先日、名古屋へまいりました。たまたま、さる有名な寺院の縁日の日でした。バス停にたむろしている善男善女(たいていは老人)の話が耳に入ってきました。八十一歳と称するおばあさんが九十歳というおじいさんに尋ねていました。「あんたも苦しまないでポックリ行けるようお願いしてきたのか」おじいさんが答えて曰く、「そんなことはお願いせん。それは願い通りになるものではない」おばあさんがさらに追及しますと、「オレは、病院でなくて家で死にたい。たといトイレの中でもいい、家で死にたい。そうお願いしてきた。」
 それも願い通りになるものではない、と野暮(やぼ)な批判をするつもりはありません。注目したいのは、この人たちは、もはや後生(ごしょう)を願っているのではない、苦しまずにポックリ死ぬことを願っているのだということです。
 かつて、人々は突然の死、不慮(ふりょ)の死をもっとも恐れました。と申しますのは、その時には何の準備もなくエンマ様の前に出なければならないからです。しかし、今は正に逆のことが願われているのです。ガンで苦しむよりも、突然、心臓麻痺(まひ)で死ぬほうがましだと人は考えます。苦しむことのなかで死の準備をするというような考え方は、姿を消しました。 
 総じていえば、人はもはやどのように死に対処しようかとは考えず、むしろ死を遠ざけようとしています。まだまだ寿命は延びるという幻想のもとに、あえて死を見ないようにしているのです。


◇彼岸と此岸◇


『御文章』には、
「人間は不定のさかひなり、極楽は常住の国なり、されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり」
と示されています。不定の境、すなわちこの転変する娑婆世界と変わることのない常住の国が対立させられています。
 もちろん本当の世界は常住の世界であります。この娑婆の世界は、その本来の国から規定され照らされるべき世界です。人がこの世にあるのは、その本来の国に生まれんがためなのです。そのためには、この世において信心深く日暮をし、後生の一大事を願うべきなのです。つまり、生はつねに死のほうから見られていたのです。生とは、たえず繰り返して死への準備をすること、いわば「死に稽古」であったのです。生き方というのは、すべてまた死に方でもあったと言ってよいでしょう。
 どんな宗教でも、信仰と死とは切っても切れない関係にあったのです。それが百八十度回転したのが現代という時代です。信仰は、死よりもむしろより多く生につながるものとなりました。「強く明るく生き抜く」ことが進められるようになりました。「生死事大」とか「後生の一大事」とか言うことは、人々と一般の生活のなかにその座を失ったのであります。
 そのことは、西洋でも変わりません。十七世紀の哲学者ライプニッツですら、「地獄がこわい」と言っていますのに、十九世紀になりますと、フォイエルバッハは次のように言うことになります。「人間は彼岸への志願者から此岸の生とになった。」
 後生に心をかけるよりも、この世を精一杯生きようという人が多くなりました。それを彼岸から此岸への転換、あるいは世俗化と呼ぶこともできましょう。そのことは、必ずしも宗教心の衰退を意味するものではありません。信仰というのは、自分さえ極楽に往生すればよいというような、利己的な願望ではありません。また、世に中に対して無関心になることでもありません。むしろ世の中が少しでもよくなるように願うものでもあります。
 しかし、この転換は死に関して深刻な問題を引き起こしました。此岸から此岸への転換は、死そのものの内部にまで浸透してきたのです。と申しますのは、かつて私たちは、死期が近づいてくると、「お迎えがきた」と申しました。死という現象は、たんなる自然現象ではなかったのです。それが罰であるか、恵みであるか、はたまた解放であるかは別として、死は何か彼岸から私たちに送りつけられたものであるという意味をもっていました。それが、今やまったくこの世的な、自然現象に変わってしまったのです。その典型的な例が、かの「脳死」といわれるものです。「死は医者が決めるものだ、医学的、科学的に決定されるべき現象だ」と言うのであります。死からすべての宗教性は排除され、自然的な原因によって起きる一現象となったのです。始めに申しました、「生の終わりにしかばねが横たわる」ということが、文字通り死のすべてになってしまいました。
 前に申しましたように、信仰は此岸を捨てて彼岸に逃れることを教えるものではありません。まさにこの世において仏の教えを聞くものです。しかし、この世がこの世であるというのは、無常であるということ、つまり私たちは生きながら死に取り囲まれているという事実なのです。ですから、この世を肯定し、この世におけるつとめを引き受けようとするならば、まさにこの事実を無視することは許されません。死に対する無頓着(むとんちゃく)は、同時に生に対する無思慮(むしりょ)を意味します。人にはそれぞれの生き方があります。その人が生きたように、またその人は死ぬともいえるでしょう。しかし逆のことも言えると思います。
 人が死をどのように考え、それに対してどんな態度をとるか、それによってその人の生き方も決まってくるのではないでしょうか。
 死ぬということを理解できないものは、本当に生きることもできないのです。 死は、医師が生に終わりに証明する「終末」のことだけではありません。死は生の真っ只中においてすでにその影を投げかけています。
 私たちは、生の真っ只中で死に取り囲まれているのです。それはあまりに中世的な無常観に毒された見方だと思われる方は、逆に近代に毒されているのです。確かに、かつて人々をとらえていた死の影、疫病、飢饉(ききん)、洪水などの諸力は、今は大した問題ではないと申せましょう。しかし、かつての疫病にかわりガン、神経痛などの病気が人々を取り囲んでいます。飢饉や洪水のかわりに、環境汚染がどんどん進行しています。もろもろの古い力は、新しい名のもとに依然として猛威を振るっているのです。 
 最初に、私は二十年前のことにふれました。その頃は、本屋の店頭に老や病や死に関する書物は、あまり見かけませんでした。この頃は、その種の書物が店頭にあふれています。それはどうしてでしょうか。人はようやく生死の問題につきあったのだと考えられましょう。幸いに長寿をえた、終わりも安らかでありたい、そのための指針(ししん)が求められているということもありましょう。あるいは、不治の病をどのように受容するかが問われているということもあります。それは、ただ苦のない生き方、苦のない死に方を教える技術論に止まるものではありません。何らかの意味でこの厳しい死を前にして生きるとはどういうことかを考えさせてくれます。死を前にして、しかも生きることがどんなに喜ばしいことかを身をもって知ること、そこに大切な焦点があります。そのためには、死の単なる常識的な理解を超えることが必要です。仏教から見て、死とはいったい何なのでしょうか。
 七回の連載を重ねました「生活の中の仏教講座―生老病死」も、今号で最終回を迎えることになりました。しかし、だからといって本稿に常に問い続けられてきたもの、つまり、私たちが人生を送るなかで直面せざるを得ない「生老病死」という「苦」をいかに受けとめていくかというテーマは、終わることはありません。このあとは、私たち一人ひとりの「生老病死」として自らの生活の中で問い続け、深めていくべきことなのです。

 前回は、死の常識的な理解をこえることが必要である、というところで終わりました。では、死とはいったいなんでしょうか。しかし、そこで直ちに私たちは行き詰まります。
 と申しますのは、死を経験することはできないと思われるからです。それについて何の経験も与えられていないから、知りようもないわけです。はたしてそうでしょうか。


◇死の不安◇


 血気盛んな若者は死のことを何ら問題にしていないでしょう。死の不安などいささかも感じていないでしょう。
 しかし、「青春はふたたび返らない」から、今のうちに楽しんでおこうと考えているとしたら、彼もやはり死のことを問題にしているのです。死に対する不安を直接感じていないとしても、もっと深い所でその不安によって動かされているのです。もし死という限界がなかったら、人生は何度でも繰り返しが聞くでしょう。もしそうであるならば、「今のうちに」ということは意味をなさないわけです。その意味で、この若者も「死の経験」をしているのだと言ってもよいでしょう。
 また、誰でもこんな経験をもったことがあるでしょう―眠れない夜、ベッドの上であれやこれやに思いをめぐらし、悶々(もんもん)として一夜を過ごすという経験を。 眠れないまま、明日の天気はどうだろうと考えているうちは、何のこともありません。 
 それが次には明日の仕事のことに移り、自分の将来のことに移ってゆきます。これは事です。心配は次から次へとひろがって行きます。途中で止めようにも止まらず、どこか決着をつけてくれるところを探します。たいていは、「明日は明日の風が吹く」というあたりで寝入るのですが、この因果の連鎖を最後まで突きつめていきますと、結局は死の想念に帰着するのです。私たちの心配が限りなく続くのは、結局は死の不安によるのであります。
 私たちは、それをそれとして意識しているわけではありません。しかし、意識していなくても、そういう現象の中に死の不安が姿をあらわしているのだと言えるでしょう。
 死の不安は心の弱さではありません。むしろ、人間存在の根本に根ざしているものです。死の不安を感じない人でも、実はそれにつき動かされているのです。大きく言えば、私たちの営みは、この死の不安から発するものとも言えましょう。
 と申しますと、人はこの世にある自分を意識するや否や、この世は定めなきものであり、したがって自分の存在がおぼつかないものであることを知ります。つまり、人にとって死が確実であると思われれば思われるほど、その人にとって生は不確かに抗して、人間は自分を確かなものにしようとさまざまに努力します。それが私たちの営みです。
 例えば、人は自分の存在を安泰にしようとします。しかし、『大経』のよれば、「たまたま、一つが得られると他の一つが欠け、これが有ればあれが無いというありさまで、つまりすべてを取り揃えたいと思う。そして、やっとこれらのものがみな整うたと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう」のです。
 あるいは、十分に物を取り揃えても、命を失うときには「すべてのものを捨てておいて、ただ一人次の世に赴くのであって、何ものもその身に沿うて行かない」のです。
 物との関係によって、自己の存在を確立しようとしても、それは成功しません。人についても同じでしょう。
 「愛するものはいつか別れ、栄えるものはやがて滅びる」。そして、「おのおのその行き先が異なっており、…遠くの境界に行ってしまえば、いかに親しいものでも、もはや相見ることはかなわぬ」のであります。
 人は生のなかにかくされている死の不安に全力をもって抵抗します。彼はたえざる時の流れに抗して、長続きするものを求めます。そして、それを支えとして自らの存在を確かなものにしようとします。それは地位であったり名誉であったり、あるいは何らかの価値であります。人はそれを絶対化し、それに寄りかかろうとします。しかし、死の不安、つまり無の不安を逃れんがために、かくも情熱的に無的なものに寄りかかろうとするのは、何たる矛盾でありましょう。それではますます不安のなかに陥るばかりです。


◇死の体験◇


 『大経』の言葉は、出口のない流転の生を示しています。同時にまた、それは重要なことを私たちに教えてくれます。
 それは、「愛別離苦(あいべつりく)」ということです。私たちは「本当に死ぬのは自分だけだ」と考えて、他者の死の経験は、本当の死の経験ではないとしてきました。たしかに『大経』にも、「人は世間愛欲のなかにあって、独り生まれ独り死す」と示されています。「人は独り死んでゆく」のであって、誰も代わることはできません。しかし、誕生がすでに独りの出来事ではなかったように、死もたんに私ひとりのなかだけの出来事ではないのです。死とはここでは愛との結びつきのなかで考えられています。すれはどういうことでしょうか。心臓がとまる、脈拍がなくなるなどと言うのは、死の医学的な側面です。しかしそれが死のすべてではありません。人間的な、そして宗教的な価値からいえば、死はまさに別離なのです。古来、「愛と死」ということが、しばしば文学のテーマになってきたのもそのためです。夫婦の一方が死ぬと、二、三年のうちに片方も死ぬとよく言われます。愛し合ってきた夫婦ならそうなっても不思議ではないと思います。そういう関係のなかで死を考えようというのです。「愛」とは無条件に相手が存在していてほしいと願うことです。反対に「憎」とは、相手の非存在、つまり死を願うことでしょう。
 ところが、仏教では「愛」とは煩悩のことです。それを自己の所有物としてみるような愛です。それは自己中心的(すなわち煩悩)であり、相手が自分に役立つ限りにおいて愛するという性質のものです。ですから、自分のために相手を愛しているのであって、決して相手のために相手を愛しているのではありません。このような関係において、人は「あなた」という人格ではなくて、たんなる対者、いや対象にすぎないのです。
 本当の愛、慈悲といってもいいのですが、それは他者中心的な愛であり、私はあなたとの関わりのなかで自分を理解し、そしてあなたのためにあろうとします。そういう関係のなかで、はじめて人は本当に私であり、本当にあなたである、つまり本当に人間であるのです。
 このような愛の関係が破れるとき、すなわち別れなければならないとき、残されたものにとってその別離はすでに一つの死であるといえましょう。なんとなれば、そのなかで自己を理解し、そのなかで自己でありえた愛の関係がなくなると言うことは、自己がなくなることを意味するからです。
 愛しい子をなくした母親は、たしかに死の経験をしているのです。それを説明する必要はないでしょう。
 現代フランスの代表的哲学者、故メルロ・ポンティは、母親を亡くした時、「ぼくは半分死んだも同然だ」といいました。
 ロシアの文豪ドストエフスキーは、小さな娘を亡くしたときに「私のほしいのはソニアだ」と言ったとのことです。
 また、作家の井上靖が言ったという話ですが、それまで死というものを考えたことがなかったのに、父親が死んだら、死と自分との間に父親が立ち塞(ふさ)がっていたのが分かった、死と自分が直面するようになったというのです。それも一つの死の経験でしょう。
 他人の死は本当の死ではありません。しかし、愛するものとも別離は本当の死の経験であります。愛別離苦(あいべつりく)のなかで、私たちは本当に死を経験するのであります。
 以上の諸例から、人間は文字通り人の「間」で生きているのだということが分かるでしょう。「間」のなかでこそ人は人でありうるのでして、自分だけで存在するものではありません。
 しかし、死において、私たちからあらゆる関係、あらゆる「間」が消失してしまいます。私たちは、物に対しても人に対しても、また自分自身に対しても、もはや関わることができなくなるのです。その中で、私たちが自分の生を過してきたあらゆる関係が失われるのです。関係のなかで生きていたものから、その関係が失われるということは、まさに死を意味します。死とは、全面的な関係喪失という出来事であるといえるでしょう。 
 死とは魂が肉体から分離することではありません。人間の生命が肉体の束縛から解放されて、宇宙の大生命と合致することでもありません。死とは関係断絶という出来事であります。
 死をそのように理解するとき、「人は生の只中で死にとらえられている」という言葉もよく理解できます。関係の破れるところ、そこには至るところ死がはたらいているのです。
 『徒然草』にも、「死は前よりも来らず、かねて後にせまれり」とあります。死は生の終わりに向こうからやってくるものではなくて、前々から生を脅かしているものなのです。
 このように死を全面的な関係喪失と理解するとき、それは全く見すてられた状態、完全な孤独を意味することは明らかです。誰からも愛されることのない状態、誰も自分のことを考えてくれない状態、近しい人からも全く忘れ去られた状態であります。それこそ全くの無を意味すると言えるでしょう。全くの無を私たちは思い浮かべることができません。死の捉え難さは、そこから来ています。
 関係こそ人を生かすものでありますならば、その喪失はまさに死を意味します。ですから、生死を出づるためには、死によっても破られることのない関係がなくてはならないということになります。そのような関係はあるのでしょうか。それはあるのです。


◇生死出づべき道◇


 それは仏との関係、仏とのご縁であります。私たちはこの世にあって、物や人との関係のなかで生きています。しかし、それらを包む大きな関係、仏との関係のなかで生かされているのです。死においては、あらゆる小さな「間」、物や人との関係が、私たちから消え去ってしまいます。しかし仏との大きな「間」、すべてを包む大きなご縁は残ります。死もこれを破ることはできません。といいますのは、あらゆる小さな関係は、凡夫のはからいによって作られたものにすぎませんから、すべて死によって破られています。しかし、仏とのご縁は、凡夫のはからいによって作られたものではなく、仏の方から手を差しのべて、仏の方から結ばれた関係ですから破れることがありません。それどころか、死さえもその大きな「間」のなかに包み込まれるのです。そして、そこでは死はかえって生―新しい国に生まれること―を意味するものとなるのです。
 仏とのご縁と申しましたのは、まさに信心のことです。真宗の信心は、死の問題に対して次のように答えます。死の瞬間、私たちから一切の関係が失われるとき、私たちが物に対しても人に対しても、はたまた自分自身に対しても、もはや一切の関わりを失うとき、仏が私たちに関わりをもちつづけてくださるのである、と。
 そのような信心のあかしを、私たちは親鸞聖人のなかに見ることができます。「往生は仏のはからい」であり、「凡夫のはからうべき」ものではない。とはっきり示されています。どこへどうして行くのかなどと案ずる必要は少しもないのです。要は仏のご縁につながること。本願のおいわれを聞くこと、それがすべてなのです。「仏法は聴聞にきわまる」といわれるゆえんです。
 その仏とのご縁は破れることがありませんので、私たちは仏のみ手に導かれて仏の国につれて行かれる外はないのです。浄土はどこにあるかなどと心配する必要はありません。浄土は「南無阿弥陀仏」のなかにすでにあるのです。 
 「臨終一念の夕べ、大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す」
とも示されています。
 このような仏のご縁をいただくと、仏との新しい関係に入ることこそ「生死出(い)づべき道」であります。『論註』には、そのことを「仏願に乗ずるを我が命となす」と示されています。そこに私たちの生は全うされ、もはや「空しく生死に止まる」ことはないのであります。
 しかし、ここで忘れてならないのは、だからといって真宗の信心は、死においても自分だけは保持されてゆくのだという利己的な望みではないということです。むしろ、それは、仏の慈悲にお任せすることなのです。
 それを生のほうからいえば、私たちの生を自分の所有物のように考え、できるだけ自分の力で確かなものにしなければならないとしがみつくのではなく、私たちの生を、賜った生として感謝をもって受けとるということなのです。もちろん、それが私の手のなかにある限り、できるだけよいものにしなければなりません。しかし、その有り難い私の生をいつでも放すことのできるように、もっとゆるやかに手にしているのであります。

 以上、生老病死について七回にわたっておつきあいを煩わしました。いい足りないところ、また分かりにくいところ、あるいは言いすぎたところも多々あったと存じます。皆様のご意見をいただいて、さらに思いを深めていただきたいと存じます。皆様方も、仏教の教えを少しでも生活に生かされていってほしいと思います。有り難うございました。


                                       龍谷大学教授 佐藤三千雄

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