煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我


 本願寺安穏殿2Fに「常照我」のご文が額装でかけられています。


〈書き下し文〉
煩悩、眼を障(さ)へて見てたてまつらずといへども、
大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

〈意訳〉
煩悩にさえぎられて、その光明を見ることができない。
けれども大悲は怠ることなく常に私を照らしてくださると述べられた。

〈解説〉
「われまたかの摂取のなかにあれども」以下の三句は、本願を信じ念仏する者のこの世から得させていただく利益(りやく)、すなわち光明摂取の益(やく)を示されます。このご文は「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障(さ)へて見たてまつらず」「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きことなくしてつねにわれをてらしたまふ」というふりに、二段に分けてみるとわかりやすいと思います。
 「われまたかの摂取のなかにあれども」というのは、『観経』に「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」と説かれている通り、源信和尚ご自身も本願を信じて念仏する身になっていられるのですから、当然、阿弥陀仏の光明に収め取られているといわれるのです。
 けれども、その私を摂め取っていただける仏心の光明は、煩悩具足の私、智慧の眼を持たない私には見ることができない。そのことを「煩悩、眼を障へて見たてまつらず」といわれるのです。本願を信じ念仏する身になれば煩悩は消滅して智慧の眼が開けるのかというと、そうではありません。悲しいことには、この迷いの肉体が尽きるまで、依然として煩悩具足の凡夫です。
 親鸞聖人も「〈凡夫〉といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほくいかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」とおおせられています。そのような私の眼に摂取の光明は見えるはずがありません。
 煩悩具足の私には摂取(せっしゅ)の光明を見ることができないけれども、阿弥陀仏は大悲心をもって、怠(おこた)ることなく嫌(いや)な思いもされずに、四六時中照らしづめに照らし護っていてくださるというのが、「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」というご文であります。

  さめてのち そばにいるとは思ふなよ
   宵からまもる 母の手枕


 如来のお慈悲を思うて喜ばせていただく時だけ照らし護ってくださるものではありません。思う時も思わない時も、合掌礼拝するときもそうでないときも仏心の光明は念仏の行者を摂め取ってくださるからこそ、私のような横着者が、「ご恩尊や南無阿弥陀仏」とお念仏させていただけるのであります。

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