正像末和讃(三十首)




 弥陀の尊号となへつつ

 
 信楽(しんぎょう)まことにうるひとは


 憶念の心つねにして


 仏恩報ずるおもひあり





【意 訳】


阿弥陀仏の尊い名号をくり返し称えて(名号のいわれを信じ、念仏申す)


真実の信心を身に得ている人は


本願を信ずる(憶(おも)う)心がとぎれず


仏恩を報謝する思いが続きます


▼弥陀の尊号称えつつ


第三十首は、他力信心を讃えられますが、
聖人のみ教えのすべてがこの和讃に収められていると味わうことができます。
 ここでは、み仏のお名前を尊号(名号)とあらわします。
信楽(しんぎょう)とは、本願のお誓いより味わうと、一心、無疑の信心をいいます。
「弥陀の尊号となへつつ 信楽まことにうるひとは」の二句は、大変深い内容をふくんでいますが、
表面で理解すると誤って読んでしまいます。
「称えつつ」を「称えながら、状態が変わる」の意味でみると、「阿弥陀仏のみ名を称えながら、
信心を本当に得れば」と直訳してしまいます。いまだ信心を得ない人は、
「一生懸命にお念仏を称えて、称えた念仏の力で信心を本当に得ます」というように、
誤った理解になります。それではこのご和讃は、自力の信心を勧めているということになります。


 この「つつ」は、「同じ状態がくりかえされ、継続する」意味と理解することが、
聖人のお心にかなう読み方ということになります。
「称え称えつついる」と、称えていることがくりかえし続いている様子をいいます。
「くりかえしお念仏を称えさせていただき、信心をまことに得ている人は」と、拝読したいものです。
 念仏申す生活と信心とは別ではなく、念仏生活がそのまま信心をまことに得ている姿だということになります。
 現に本願のお誓いにしたがって、念仏申している人について讃えているのであって、
未信の人に、称名念仏を励んで信心を得てくださいと勧めている和讃ではありません。


▼尊号はよび声


 ここでどうしても注目しておかねばならぬことは、念仏とはどのような内容をもつかということです。
 親鸞聖人の恩師法然上人は、念仏は阿弥陀仏の願いに選ばれた最も勝れた、
誰でも修めることのできるやさしい行(易行いぎょう)だと示されました。
したがって、念仏は仏さまの願い にしたがってひたすら称名念仏申すことだとうけとめられました。
 称名念仏と聞くと、我々はすぐ「称える」というところに力が入り、
何度称えたらよいのだろうか、一度の称名念仏と幾千回も称えた念仏とは、
ご利益に違いがあるのだろうか、少しも称名念仏申す気になりませんがと、次々と問題が出てきます。
 親鸞聖人は、法然上人の念仏の心を継続されながら、
念仏は、阿弥陀仏より賜るもので、仏さまの行(大行)ですと説かれます。

そして阿弥陀仏だけではなく、あらゆる諸仏方が、お釈迦様を中心として、
この念仏をお勧めくださっていると説かれます。
 み仏がお勧めくださるということは、「よび声」であって、
そのよび声が私の口をついて称名念仏となっているということです。
 
人生のさまざまな苦しみや悲しみの中で、私が静かに手を合わせ、
み仏の名を称えさせていただき、称えつつみ仏の心を思わせていただくとき、実は、
その念仏がそのまま、はるかな過去より私をよんでくださるみ仏のよび声の中にあることが知らされます。
 尊号(名号)とは、お名前ですが、そのまま「よび声」です。
ですから尊号をくりかえし称える生活は、そのまま、よび声を聞きつづけていく生活ということになります。



▼み仏より賜る信心


 次に「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」について拝読したいと思います。
憶念という言葉は、億(おも)いをかける、深く思うという意味ですが、いま聖人は憶念=信心とあらわされます。
「正信偈」に「憶念弥陀仏本願」とあります。これは、阿弥陀仏の本願を信ずる人はという意味で、
信心の人が願力のはたらきで仏になるべき位(必定の位ひつじょうのくらい)に定まることを述べたものです。
 いま憶念の心がつねにつづくということは、本願のいわれを聞信して、
阿弥陀仏のおおせにおまかせする思いが生涯つづくということです。

 これでよいのだろうか、こんな信心でよいのだろうかとためらったり、あの教え、
この教えと心が揺れるのではなく、ただこの道より無いと 阿弥陀仏のよび声にしたがって生きることを示します。
 ここでも、深く考えねばならない問題があります。
 本願のいわれを聞信して、阿弥陀仏のおおせにまかせることが、憶念であると述べましたが、
それは容易なことではありません。私自身が問いをもって、真剣に聞法をかさねることによって開かれる道です。
しかも、賜る信心ですから、私が理解し、納得して私が信じ込むのではなく、
ただおおせにしたがう信心であったと念仏申すより他にない道なのです。
聞法をかさねながら、お聖教の一言一言を拝読しながら、道を求めていくことになりますが、
その道は、すでにみ仏さまの手だてによって開かれてあったと気づかされることになります。


▼大いなるめぐみをうけて


 み仏のよび声にまかせていく歩みは、つねにみ仏の光の中におさめ取られて生きることですから、
次に「仏恩報ずるおもひあり」と、報恩の思いを語っておられます。
 み仏の大いなるめぐみに感謝し、その千分の一、万分の一でもお返ししていこうとすることが、
報恩ということです。
これだけいただいたので、これだけお返ししようというのではなく、
返しても返してももうこれでよいというのではなく返しきれないめぐみを感じていくことです。
 そのめぐみを感じていく歩みは、また少しでもこのみ教えに
生きる喜びを伝えていきたいという歩みでもあります。
 お釈迦さまは、人生には避けられない生老病死の根本問題がある
それを解決しなければ、人生の苦しみは、はてしなくつづくと説いておられますが、
法然上人や親鸞聖人は、阿弥陀仏の願いにしたがい、念仏に聞き、念仏申す生き方の中に、
避けきれない根本の問題を解決していく道があることに気づいていかれました。
その喜びは、また、この世に命を賜った喜びを知ったことでもありました。
返しきれないめぐみをこの身に感得していくことでもありました。
 この第三十首目のご和讃は、生涯念仏に生きぬかれた法然上人を思われながら、
親鸞聖人が讃えられた和讃と味わうこともできましょう。
また、法然上人のみ教えに遇い、念仏に聞き、念仏申す身になられた聖人が、
ご自分を顧みながら私たちにも他力信心に生きる道をお勧めくださるご和讃ともみることができます。
 今、この一首は、『正像末和讃』の中に讃えられていますが、少し表現を変えて

 
   弥陀の名号となへつつ信心まことにうるひとは
    憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり



とあります。これは、『浄土和讃』の第一首になります。先師の方々は、
これを冠頭讃(かんとうさん)とよんでいます。聖人のみ教えが、この一首の中に言いあらわされてあり、
すべてのご和讃の総論とみるべきであるという説もあります。
 その大切な和讃が、なぜ、この『正像末和讃』の中ほどに、もう一度引用されたのか、
その深い意味を考える必要があります。
それは、次の第三十一首の和讃と関係のあることですから次回に考えたいと思います。


                                                  浅井成海先生