◇天親菩薩の教え

 親鸞聖人と七高僧の教え(天親菩薩の教え)


▼天親菩薩の伝記
 


 龍樹菩薩の教えを受けつがれた天親菩薩は、ガンダーラ地方(パキスタン)のプルシャプラ、にお生まれになったのです。
天親菩薩には三人の男兄弟がありました。ガンダーラ地方は当時、小乗仏教が盛んでした。
そんなわけで、三人共はじめは小乗仏教の修行者として出家されたと言うことです。


▼天親菩薩の根本論
 

 龍樹菩薩はさとりに至る第一関門として、どうしたら不退転の位に至ることができるか、
それを深く考えられました。弥陀浄土への往生ということは、明確には示されませんでした。
弥陀浄土の往生の道を明確に示してくださったのは、天親菩薩がはじめてなのです。
天親菩薩の阿弥陀如来への信仰を説いているのが、
 『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』→『浄土論』とも『往生論』とも略称されています。
【大乗仏教】…自分一人のさとりに安住する教えではありません。
         自分も他人も共にさとりに至る教えこそが、真実の教えであると考え、
         これを大乗仏教と呼んでいます。


▼浄土に往生を願うとは


『浄土論』の偈頌は、まず初めに天親菩薩が、
   世尊(釈尊)、われ一心に尽十方無碍光如来(阿弥陀如来)
   に帰命してたてまつりて、安楽国(浄土)に生ぜんと願ず

と菩薩ご自身が、阿弥陀如来の浄土に往生したいと願うことを示されています。

 次いで、なぜ弥陀の浄土に往生を願うかについて、弥陀の浄土はこのように勝れているからであると、
①浄土のみごとなありさまを十七種(国土荘厳)
②阿弥陀如来のすぐれたありさまを八種(仏荘厳)
③浄土に往生している菩薩方のすぐれた徳を四種(菩薩荘厳)

を示され、国土、仏、菩薩の三種荘厳(三種のすぐれたありさま)がうたわれています。


▽阿弥陀如来の浄土とはどんな世界でしょうか?


 阿弥陀如来の浄土とは「三界(さんがい)の道に勝過(しょうが)せり」と言われています。
 「三界の道」→迷いの世界。「勝過」→超え勝れることです。
 浄土とは迷いの世界に超え勝れた、仏のさとりの世界であると言うことです。
煩悩によってよごされることのない、清浄な世界です。
一切の執着、とらわれを離れた心によってみられる世界です。
 また仏の慈悲の世界でもあります。自分一人の悟りに満足している世界ではありません。
迷いの衆生を悟りに至らしめねばおかないという、大きな大きな慈悲の世界でもあります。


『浄土論』では、
   仏の本願を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。
   よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ

と言われています。
如来の本願力を信じれば、決して空しく生死に迷うものはない。
信心を獲得したその時にすみやかに、名号の功徳の宝をいただいて、
やがては如来と同じ悟りを満足させねばおかないと述べられているのです。


▼一心の宣布


 一般に知られている一心という言葉には、自力の一心と、他力の一心とがあります。
 自力の一心というのは『阿弥陀経』に、
   舎利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を
   心にとどめ、あるいは一日、…あるいは七日の間、一心に思いを乱さ
   ないなら…

とあるように、あることを心にとどめ、一心に思いを乱さないように努力すること、これが自力の一心です。


 他力の一心とは『浄土論』に、
    世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命し
    たてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず

とあるのがそれです。
 他力の一心とは、専一の心という面と、二心(ふたごころ)がない無二心という面とがあると言われます。
【専一の心】…阿弥陀如来の本願以外に心を動かさない、阿弥陀如来の本願一つで十分であると、
        阿弥陀如来一仏を純粋に信じる心です。


【二心なく信ずる】…救われるだろうか、救われないだろうかと、迷うことなく、
             本願救いを疑わず、本願におまかせした心です。


他力の一心→他力の信心→真実信心
 親鸞聖人は、衆生にめぐまれる他力の一心の中に、法蔵菩薩が十方衆生を救うために、
 十方衆生にかわって、ご修行してくださった五念門の徳が具わっていることを
 『浄土論』は教えられていると考えられました。


▽五念門の行とは
①身に弥陀を礼拝し(礼拝門)
②口に弥陀の徳を讃え(讃嘆門)
③心に往生を念じて心を乱さず(作願文)
④心に浄土や仏や菩薩方のありさまを観じて、自らの悟りの智慧を完成し (観察門)
⑤苦悩の衆生を救う慈悲の活動を行うこと(回向門)五種の行を言います。


 一心すなわち信心をいただけば、信心には阿弥陀如来の智慧、慈悲の徳が具わっているから、
その信心が因となって往生成仏することが出来るのです。信心が往生成仏の正因である。
信心正因であると言われるものそのためです。


一心を得た人には、自らその信仰生活の上に、五念の相が現れてくるのです。
   弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは
   憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり

一心を得ている人は、信心相続の相として、口に自ら仏恩報謝の念仏、
仏徳讃嘆の念仏となって、あらわれてくるのです。
   浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
   虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

一心を得て、本願に帰しているからこそ、如来の智慧に照らされて、真実の心もなく、
清浄の心もない人間のすがたが知らされ、本願に導かれる人生を歩ませていただくのです。


 聖人は、『浄土論』の一心とは第十八願の信心のことである。
その第十八願の信心には、仏の智慧、慈悲が具わっているから、それが成仏の因となって、
信心一つで一切衆生が救われると、はっきり示してくださったのが天親菩薩である、と考えられました。

                                          
                                              黒田覚忍先生
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